胎児の染色体疾患を調べる検査は古くからあり、アメリカでは、まず1970年代初頭に羊水検査ができて広く普及した。羊水検査は腹部から子宮に針を刺して羊水を採取し、胎児細胞を培養して染色体を調べる。その後、胎盤の一部を採取して調べる絨毛検査、胎児を視覚化する超音波検査などが登場し、検査に選択肢ができていった。

これらは、いずれも高い技術を持った医師を必要とする検査である。さらに出生前検査は、病気を診断された胎児を「治療」する意欲を持つ医師たちが、その発展を支えてきた。

エヴァンス氏はその1人で、胎児医療の草分けとして若い医師たちに技を伝えてきたので、専門医たちからレジェンドと呼ばれている。

日本では、出生前検査は人工妊娠中絶につながることがあるため「命の選別」とされ、抑制的に行われてきたが、アメリカでは遺伝カウンセリングが普及し、妊婦の自己決定権が尊重されてきたのが日本と異なる点だ

州によって異なる検査への対応
「アメリカ産婦人科学会は、胎児の染色体の検査について『すべての妊婦が受けられるべき』という方針を明言しています(*1)。選択肢を医師から説明され、自分で選べることは、アメリカの医療では患者の基本的な権利と考えられています。それを怠った医師は訴えられることもあります」

ところが、その大前提が最近は変化してきたと、エヴァンス氏は続ける。

「特にこの10年ほどの間に、状況は悪くなりました。共和党の支持者が多いレッド州と呼ばれる地域では、人工妊娠中絶の非合法化が進行しています。その結果、出生前検査について、妊婦に何も話さない産科医が増えています。出生前検査は中絶につながり得るからです」

では、出生前検査を受けられないレッド州に住む女性たちは、どうしているのだろう。

「インターネットで私のような専門家を探すのです。私は今、ニューヨークで胎児の検査専門のクリニックを開業しています。ニューヨーク州では出生前検査・診断、人工妊娠中絶は合法的行為で、私のような専門医も遺伝カウンセラーもたくさんいます」

エヴァンス医師は、レッド州の女性たちのオンライン相談も受けている。彼は、突然、選択肢が消えた女性たちに対して、強く同情していた。オンラインでは不可能な実際の検査や、ときには人工妊娠中絶のために、レッド州の妊婦たちは民主党支持者が多いブルー州への長旅を余儀なくされているからだ。

「それも、ブルー州に行けるのは、経済的に余裕があり、情報収集に長けた女性だけです」とエヴァンス氏は付け加えた。

「アメリカでは、妊婦は住んでいる州によって出生前検査を受けるかどうかの判断を左右されるのです。産科医の中にも、こうした状況に危機感を覚えて、レッド州を去るものが出てきました。患者に適切な情報提供をしない医師は患者に訴えられるのがアメリカの本来の医療ですから、医師も情報を提供できない州にいるのは不安なのです。最高裁による人工妊娠中絶の権利の否定でアメリカは内戦状態になりつつあり、出生前検査の分野は大きく影響を受けています」

スキル不要の検査による不都合
さらにエヴァンス氏は、「熟練した医師が要らない検査」が現れ、多用されるようになったことが、出生前検査全体にもたらしたインパクトについて語った。「出生前検査の世界は、今、医師ではなく、検査会社と、その経済活動を中心に回っている」と指摘する。

2010年代はじめのアメリカでは、ベンチャーの検査会社が競って、ダウン症(21トリソミー)、18トリソミー、13トリソミーの可能性を次世代シーケンサーで調べるNIPTを開発した。血液検査だけという簡単さは大いに注目され、日本では禁じているが、アメリカでは胎児の性別も告げているのでそこも喜ばれた。

「NIPTは、胎児に問題が見つからない限り、医師には知識もスキルも要りません。医師はただ採血をして、その血液を検査会社に渡せばいいのです。あとは検査会社が全部やってくれます」

その手軽さから、これまで出生前検査に関わってこなかった産科医もNIPTを始めた。今では、多くの妊婦たちがかかっている産科医のもとで、簡単にNIPTを受けられる。エヴァンス氏のような、治療も含めた胎児医療全般について経験を積んできた医師のカウンセリングを受け、合理的な選択肢をすべて提示されてから検査を選択する人は減った。

日本では、医師がNIPTを扱う場合、正式には国が参画する認証制度の審査を受ける必要がある。そこで、医師に一定の専門的知識や倫理性があるかどうかが審査されるが、アメリカにはそうした制度はない。

エヴァンス氏によると、「NIPTを提供している産科医はほとんどの場合、妊婦たちに十分な説明をしていないし、絨毛検査のようなもっと幅広く調べる検査については知らせないか、過小評価する」と言う。

NIPTの難しい点は、擬陽性・擬陰性があり、それだけでは染色体疾患の有無を確定できないということだ。

陽性とされれば妊婦も家族も動転し、大きな不安に包まれるが、本当に疾患があるかどうか知るには、羊水検査もしくは絨毛検査を受ける必要がある。しかし、今アメリカでは、そうした確定診断の回答を待てない人が、NIPTの結果だけで人工妊娠中絶をするケースが問題になっている。これについて、FDA(アメリカ食品医薬品局)は2022年に警告を出した。

同機構はNIPTの結果のみで人工妊娠中絶が行われるケースがある事実を掌握しているとし、妊婦に対し、「出生前検査やその結果を受けてどう行動するかの判断は、専門的な訓練を受けた医師、遺伝カウンセラーなどと話し合うように」と呼びかけている(*2)。

では、出生前検査に詳しい医師の診療とはどのようなものなのか?

エヴァンス氏のプライベート・クリニックでは、妊婦は妊娠のごく初期に、ソファに座ってゆっくりと専門家の話を聞く。専門家は妊婦の選択肢について考え、妊婦の質問に答える。

提示される検査の選択肢は、多彩だ。NIPTだけではなく、時間をかけて胎児の体のつくりを見る精密な超音波検査、羊水検査、絨毛検査など、あらゆる手法で出生前検査を行うことができる。

羊水検査、絨毛検査は確定診断ができる検査で、現在では、マイクロアレイと呼ばれる高度な分析法も採用されている。エヴァンス氏は多くの疾患を調べるため、マイクロアレイで解析する羊水検査、絨毛検査を選択肢に加えることを特に重要視している。

NIPTではわからない病気が多い
「NIPTは多くの場合、ダウン症など3つのトリソミーと性別しか調べていないので、ほかの病気は見落とします。ダウン症と同じ程度に神経学的な問題や発達の遅れがみられる病気は、ほかにもたくさんあります。出生前検査に詳しく良心的な産科医なら、妊婦さんが私の目の前で『ダウン症が心配です』と言ったら、胎児疾患はダウン症以外にも、同程度の重さの病気はいろいろあることを教えるでしょう。そしてNIPTではそれらのほとんどはわからないですが、わかる検査も存在することを伝えるでしょう」

エヴァンス氏のクリニックで見つかる疾患のうち、NIPTだけでわかる疾患は2割ほどにすぎないという。

「NIPTは、今やアメリカで行われている非確定的な出生前検査の半分を占め、増え続けています。そして女性たちのほとんどは、胎児疾患全体の話を聞くチャンスはなく、NIPTはなんでもわかる検査だと思ってしまうのです。NIPTの登場は、技術としては革命的な進歩でした。しかし、実際にはどうでしょう。アメリカ社会で起きていることを見ると、出生前検査のケアの質はかつてより低下しています。妊婦たちは、『偽物の安心』を与えられているわけです」

エヴァンス氏が今願うのは、胎児の先天性疾患についての知識がもっと普及することだ。

残念なことに今のアメリカでは、最善のカウンセリングと検査に恵まれた妊婦と、そうではない妊婦の差は縮むことなく、広がるばかりだ。それでもエヴァンス氏は、医師と患者の教育が良くなれば、国全体のケアがよくなるという希望を持っている。

胎児の検査や治療に詳しい産婦人科医で、エヴァンス氏を招いた学会の大会長を務めた左合治彦氏(国立成育医療研究センター遺伝診療センター長)に、日米の状況の違いを聞いた。

「日本では、アメリカとは逆の動きがあった」と左合氏は言う。

「日本は、相談体制が整っていないところにNIPTが入ってきました。NIPTが採血だけで簡単にできる検査だったので、濫用されないための体制整備をめぐる議論が起こりました。そこで、検査施設に一定の基準を満たすよう求める認定制度が日本医学会にできました」

当初の認定制度は、「35歳以上」という制限があった。また施設基準が厳しく、施設数も増えなかったので、制度の枠外で誰にでもすぐNIPTを提供する内科や美容系のクリニックがでてきた。

新しい認証制度で参加施設が増加
2022年に、国が参画する新しい認証制度が稼働し始めてからはようやく施設数も増え、カウンセリングを受けても不安が消えない場合は、34歳以下でもNIPTを受けられるようになった。

しかし、国が20余年の沈黙を破って厚労省に出生前検査の専門委員会を組織したり(現在は子ども家庭庁に移管)、認証制度に参画し、NIPTを希望する妊婦に認証施設を選ぶよう促す広報活動を行ったりしているのは、アメリカでFDAが乗り出して警告を発していることと被る。

日本は、NIPT導入を機に出生前検査の体制がよくなってきたが、それは“以前に比べればよくなった”という話であって、日本の認証外施設でNIPTを提供している医師たちは産科医ですらない。妊娠や胎児は彼らの専門外だ。左合氏は言う。

「これが心臓手術なら、“医師でありさえすれば誰が執刀してもいい”とは誰も思わないでしょう。基本的にそれは出生前検査も同じで、専門家による対応が必要であることをわかってほしいと思います」

日本でもアメリカでも、妊婦に対して専門家の必要性をどのようにわかりやすく説明できるかが、問題解決への重要なポイントとなる。



引用元:
妊婦の6割が「出生前検査」を受ける米国の悩み(東洋経済オンライン)