女性のがんでもっとも多い乳がん。女性がん患者の約5人に1人が乳がんを患っている。実は筆者の妻もその1人で、近々、乳房全体を取り去る手術を行う予定だ。女性にとって乳房を失うことは精神的にも、生活の質(QOL=Quality of life)の面でも大きな負担をともなう。そのため、患者によっては「乳房再建」手術を選択する。いま、公益財団法人がん研究会有明病院(以下、がん研有明病院)と大手下着メーカー・ワコールがタッグを組み、よりよい乳房再建を目指した共同研究が進んでいる。同院で数多くの乳房再建手術を手がけてきた矢野智之形成外科部長に話を聞くと、これまでとはまったく異なる、画期的な乳房再建への道筋が見えてきた。

【チャート】乳がんと診断されたら治療法はどう選ぶ?治療の流れ

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「恥ずかしながら、われわれはブラジャーとか女性の下着への理解が甘かったんです」

 矢野医師は正直にこう打ち明ける。

 がん研有明病院では年間約1000〜1200件の乳がん手術を行っており、手術件数は国内1位(週刊朝日ムック「手術数でわかるいい病院」調べ)。乳房再建手術の数も300〜400件に上り、国内のほかの病院と比べても圧倒的に多いという。

「だからこそ、乳房再建をなんとかQOLの向上に結びつけたいという気持ちがありました」

■乳房再建に男性医師が多い理由

 再建した乳房がブラジャーにフィットするかは、手術後の患者のQOLに直結する。だが、意外なことに、これまで再建乳房とブラジャーとのマッチングの問題は見過ごされてきたと矢野医師は言う。

「下着に対して再建乳房が少しオーバーサイズになってしまったり、ブラのワイヤーで押されて痛かったり。せっかく乳房を再建したのに、再建していないほうにパットを入れてブラを調整したりするという状況も見受けられました」(矢野医師、以下同)

 手術を行う医師の多くが男性で、女性の下着についての知識が十分でなかったことが背景にある。

「乳房再建手術には、インプラントを埋め込む再建と、自家組織を移植するものがありますが、後者はかなりタフな手術なものですから、どうしても男性医師が多いんです」

自家組織による乳房再建手術は、腹部の脂肪と皮膚の組織を胸に移植するもので、平均約7時間を要する。

「その際、組織の動脈と静脈を胸の血管をつなぐんですが、血管の直径は平均2ミリくらい。非常に細かい血管を顕微鏡で見ながらずっと集中してつないでいく。しかも、手術の結果は100かゼロしかないんです」

 100%血管が通れば、移植した組織は生きる。

「ところが、10%詰まったけれど、90%血液が流れている、という状態は起こりえないんです。血管が細いので、詰まり始めると緊急手術で再吻合をしないと、移植した組織が壊死して、すべて腐り落ちてしまう。結果が如実に表れるので、この手術は体力的にきついだけでなく、メンタル的なプレッシャーも、ものすごく大きい」

■飛び抜けたワコールの3D技術

 一方、最近アパレル業界では人体の3Dデータを活用した商品開発や製造が盛んに行われるようになってきた。

 ワコールもその一つで、店舗に設置したボディースキャナーを使い、たった5秒で全身の150万点を計測。独自のアルゴリズムによってバストの形状を判定し、最適なブラジャーを提案する「3D smart & try」サービスを展開している。

 ワコールはこのサービスを開始する直前の2019年4月、東京・表参道でデモ機を展示した。そこに訪れたのが、矢野医師だった。

「私は昔から『医工連携』、つまり、医療と産業技術との連携に興味があり、さまざまな取り組みを行ってきました。そこにワコールの3D技術が飛び抜けた感じで目に入ってきた。積極的にわれわれの方からお声がけをしました」

 矢野医師が注目したのは、ワコールの持つバストに関するさまざまな生体データや、ブラジャーづくりについてのノウハウだった。

■目からうろこの「勘違い」

 共同研究が正式にスタートしたのは20年1月。ワコールとの意見交換が始まると、「すごく勉強になった」と、矢野医師は率直に打ち明ける。

「ブラジャーにはカップの種類のほかいろいろなタイプがある。『勘違いしていたな』と思うこともありました」

その「勘違い」こそが、後に「サージカル(手術用メジャメント)ブラジャー」の開発につながり、手術のゴールが180度転換する大きなきっかけとなった。

「ぼくらは乳房を再建する際、左右対称がいいとずっと思い込んでいたんです。けれど、必ずしもそれが、正解ではない、ということがわかりました」

 矢野医師は「形成外科という科は、わりと『職人かたぎ』のところがありまして」と、明かす。

「プロフェッショナルの目で観察して、経験と美的センスで左右の乳房を揃える、みたいな文化があった。一方で、せっかく苦労して移植した組織を削り込むって、抵抗感があるんですよ。それに、もし削って、小さくなりすぎた場合、元には戻せない。ですから、どうしても大きめになりがちなところがありました」

■「エイジングバスト」の教え

 ワコールとの共同研究で医師らが突きつけられた命題はきわめて根本的なものだった。

「そもそも、うまくいった乳房再建とは、何なのか」

 それを考えるうえで、重要なキーワードとなったのが「エイジングバスト」だった。ワコールは女性の体形変化を知ることの大切さを繰り返し説いた。

「つまり、年齢を重ねることで、バストが垂れてきたり、乳房の上のところがそげるように痩せてきたりする。そういった体形変化が起こってくるので、乳房を下着に収めることを考えると、必ずしも左右対称がいいとも限りません。自家組織を移植する場合、お腹の脂肪は、乳腺とはやわらかさや弾性も違いますから」

 そこで、矢野医師らは乳房再建手術のゴールをガラリと変えた。

「これまでは医師が視覚的に乳房を左右対称にすることを手術のゴールにしていたんです。それを、ブラがしっかりフィットする乳房に、ゴール設定を変えました」

 そのために開発したのがワコールの3D技術を活用したサージカルブラジャーだ。これを手術中の患者の胸にあてがいながら乳房の再建を行う。

■患者自身が手術のゴールを決める

「やっていることは、手術中にブラをつけるという、とても単純なことなんです。でも、そうすることによってブラから出ている部分とか、浮き上がっているところが視覚的にすごくよくわかる。ブラからあふれている組織を削って、形を整え、きれいにブラのラインが出る乳房をつくります」

 手術前、患者はバストの形状を立った状態で測定する。その際、測定用の薄いブラジャーをつけ、体の姿勢の変化によって胸の形があまり変わらないように工夫しているが、手術中も念を入れ、十分に安全を確保したうえで、患者の上体を起こし、立った状態に近づけて乳房の形を整えていく。

「これまでは医者が手術のゴールを決めていた。それに対して、患者さんが手術前にブラを選び、それがよくフィットする乳房を再建する。患者さん自身が手術のゴールを決めるかたちになるのです」

 サージカルブラジャーの製作費用はそれほど高くないので、ほかの病院でも導入しやすいのではないか、と矢野医師は言う。

「手術のゴールが非常にクリアなるので、今後は乳房再建をされている先生方に学界や論文を通じて発信していきたいと思います」

 これまでワコールは女性の美を通じた社会貢献を企業目標としてきた。

「今回、有明病院様より、弊社の培った知見と現在注力するデジタルサービスが、乳房再建の発展に寄与できる可能性についてお話をいただいた際は、強い使命感を感じました。1人でも多くの方に乳房再建を通じて元の日常を取り戻していただくことに、この共同研究が広く貢献できるよう、しっかり取り組んでいきたいです」(ワコール・下山廣執行役員 イノベーション戦略室長)


引用元:
目からうろこ!ワコールの教えが形成外科医の常識を変えた 乳がん患者の「乳房再建手術」が画期的に進化〈AERAdot.〉