「とにかく、あなたを助けたい」

 電話から聞こえてきた言葉が、信じられなかった。「世の中に、助けてくれる大人がいるなんて思わなかった。今まで一度も、人から何かしてもらったこと、なかったから」

 東日本に住む少女(18)が、慈恵病院(熊本市西区)のSOS妊娠相談に電話をしたのは3月上旬。妊娠8カ月だった。幼い頃から親から虐待を受け、家を出ていた。頼れる人はいない。そんな時、中学校の社会の授業で知った「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」のことを思い出した。

 何度も電話やメールをするうちに、苦しい胸の内を打ち明けていた。どうすればいいか分からないこと、毎日がつらいこと…。

 病院に来るようにと言われたが、「本当に助けてくれるのかな」と半信半疑だった。それでも少女は熊本へ来た。そして、母になった。

 「死」思い詰め支えに心開く

 「私は親から、捨てられたんだ」

 慈恵病院(熊本市西区)を訪れた東日本の少女(18)には、実の母と、何人かの「父」がいた。「私を産まなきゃよかったって、お母さんはいつも言っていた」。大好きな母だけにつらかった。

 「父」たちからは何度も、身体的な虐待を受けた。顔にあざができた時、一緒に登校する小学生の妹に「先生には『お姉ちゃんは転んだ』って言うんだよ」と、うそをつかせた。「ママが幸せなら、私が我慢すればいいやって思ってた」

 高校には行かせてもらえなかった。歓楽街などでバイトをし、生活は荒れた。児童相談所(児相)の一時保護を受けたこともあったが、母親は「うちには虐待はない」と言い張った。「父」から殴られていた話をしても、児相の職員をはじめ、誰からも信じてもらえなかったという。

 その後、少女は家を出た。さまざまな理由で親と暮らせない子どもたちが共同生活を送る「自立援助ホーム」に入居。親と縁を断って暮らした。

 ある日、妊娠が分かった。中絶できる時期を過ぎていた。

 一度だけ、地元の産婦人科を受診した。国民健康保険料は自分で払い、親に知られる心配がなかったから。「妊婦健診をしていないから、うちでは産めない。大きな病院に行って」と言われた。

親に知られるのは絶対に嫌だった。「おなかの子と死ぬしかない」。独りで思い詰めるようになった。

   ◇  ◇   

 4月上旬。少女はスーツケースを引きずり、JR熊本駅に降り立った。慈恵病院には到着時間を伝えていたが、怖くなって構内のトイレにこもった。すると「今どこにいる?」とメールが届いた。改札を出ると、病院の職員2人が立っていた。病院に向かうタクシーの中で、職員に初めて本名を明かした。

 院内にある困窮妊婦保護室「エンゼルルーム」で約2カ月間を過ごした。小さなキッチンやシャワー室、トイレがあるワンルーム。職員がミルクの作り方やおむつ替えなど、母親に必要な知識を教えてくれた。おしゃべりしたり、おやつを食べたりすることも。「こんなに優しくしてもらったの、初めてかも」。少女は次第に心を開き、「子どもは自分で育てたい」と思うようになった。

 4月末、元気な男の子を出産した。「初めてできた『家族』だから」。何度もそうつぶやいて、無垢[むく]な命を抱きしめた。(林田賢一郎)

引用元:
SOS「本当に助けてくれるの」 孤立する妊婦〜「ゆりかご」の周辺で(熊本日日新聞)