菅義偉首相が鳴り物入りで打ち出した、不妊治療における「保険適用の拡大」。10月の全世代型社会保障検討会議で「出産を希望する世帯を広く支援し、ハードルを少しでも下げていくために、不妊治療への保険適用を早急に検討し、本年末に工程を明らかにします」と発言。2022年4月の保険適用を目指すという。

1983年に国内初の体外受精児が誕生してから37年。不妊に悩む夫婦は年々増加し、専門施設が拡大されてきた。日本産科婦人科学会によると2018年には体外受精で5万6979人が生まれ、過去最多を更新。この年の総出生数は91万8400人なので、約16人に1人が体外受精で誕生した計算になる。

日本の治療件数は世界一と言われている。しかし件数が世界一にもかかわらず、出生率が世界最下位であることが世界の生殖補助医療の実施状況をモニタリングしている組織、ICMART(International Committee for Monitoring Assisted Reproductive Technologies)の調査で判明している

保険適用にすることによって生じるリスク

日本は不妊治療に関する法整備が行われていない数少ない国の1つでもある。2016年のデータによると、IFFS(International Federation of Fertility Societies)加盟国で回答があった70カ国中、40カ国(57.1%)で法規制があるが、日本も含めチリ、コロンビア、エクアドル、インド、アイルランド、ナイジェリア、フィリピンなど17カ国(24.3%)は、学会ガイドラインのみ、13カ国(18.6%)は規制なしとなっている。

さらに不妊治療は自費診療ということもあり、今日までつねに高額な治療費が問題になっていた。2018年のNPO法人「Fine」の調査によると、治療費が総額100万円以上かかった夫婦の割合は56%までに上っている。経済的負担で悩んでいた夫婦にとっては、保険適用が吉報なのは間違いない。しかし、不妊治療を保険適用にすることによって生じるリスクはないと言い切れるのだろうか。

世界保健機関(WHO)は、不妊原因の24%が男性のみ、24%が男女双方にあり、合わせると不妊の約半分は男性側に何らかの原因(男性不妊)があると報告している。しかし、不妊問題は女性側に原因(女性不妊)があるとして目を背けている男性が多いのが現実だ。

2016年度の厚生労働省の発表によると、男性不妊の原因の82.4%が精巣で精子を十分につくれない障害(精子の問題)、13.5%が勃起不全などで性行為ができない障害、3.9%が精子の通り道が詰まって出てこない障害となっている。保険適用により治療を受けやすくなることで、これまでは表に出なかった男性側、また精子の問題も前面に浮上してくることになる。

これまで金銭面での負担軽減のみに焦点が当たっているが、専門家からみて、保険適用によってどのような問題が生じるのか。『本当は怖い不妊治療』の監修者、産婦人科医であり「臨床精子学」の第一人者でもある黒田優佳子医師に訊いてみた。

不妊原因は夫婦ごとに異なり治療は複雑
「今、不妊治療は“安全性が保証されている”確立した医療であるかのようなイメージもありますが、新しい治療であり、まだ効果や安全性など科学的根拠に基づいたエビデンスが確立していない部分があります。

不妊原因は細かく分類すると、男女とも数十から数百あります。妊娠は、妻と夫の状態の掛け算(妊娠=妻✕夫)で成立しますので、不妊原因の組み合わせが夫婦ごとに大きく異なることが治療を難しくしています。

どんなに妻の治療がうまくいっても、夫の精子の状態が悪いままでは妊娠率は上がりませんし、逆も同様です。さらに具体的に言えば、治療容易な不妊原因をもつ夫婦は妊娠できる可能性は高くなりますが、治療困難な原因をもつ夫婦は治療を繰り返しても妊娠する可能性は極めて低くなります」(黒田医師)

例えば、子宮筋腫などの婦人科疾患は、目の前の患者1人が治療対象となり、治療法もある程度決まっている。一方、不妊は、夫婦がもつ複数の不妊原因が絡み合っているため、不妊治療の方法も成功率もリスクも夫婦ごとに異なり、非常に複雑になるということだ。

治療法は確立していて治療を繰り返していればいつかは成功する――、不妊専門施設ホームページには、まるでそう言っているかのような明るいイメージのサイトも少なくない。ときに、高い成功率をうたっているようにも読み取れる。しかし、不妊治療で生まれた子どもへの影響(先天異常を含めたリクス)に関しては、ごく一部の施設を除き、あまり開示されていないのが実情だ。

「“どうしてあなたたちは不妊なのか”という夫婦ごとの不妊原因を厳密に解析して具体化しなければなりません。健康な命が誕生するために“どのような技術をどのように組み合わせたら、安全で適切な治療を提供できるのか”という、夫婦ごとのオーダーメイド治療(個別化治療)を組み立てることが不可欠です」(黒田医師)

現在の不妊治療の主流は、顕微授精(1匹の精子を卵子に穿刺注入し、人の手を介して人為的に授精させた胚を子宮に戻す技術)で授精させた受精胚を胚盤胞まで長期体外培養を行い、1度凍結させた後に解凍させた胚盤胞を子宮内に移植するというものだ。

顕微授精の急速な普及により出生児が増えたが、2011年の厚生労働省の不妊治療出生児に関する調査では、顕微授精・胚盤胞培養・胚盤胞凍結保存の人工操作を加えるほど出生時体重が増加することが報告された。

「この胎児過剰発育には、ゲノムインプリンティング異常(遺伝子の働きを調整する仕組みに異常が出る病態)が関与している可能性が指摘され、先天異常を専門とする小児科医や研究者らは、『顕微授精や胚盤胞培養のリスク』を危惧する研究成果を報告しています。

そのような背景のなか、“顕微授精は安全です。自然に妊娠したときと同じくらいのリスクです”と説明されることも少なくないようです。出生児の精神発達障害を含めた心身発育状況が表面化してくることはほとんどありません」(黒田医師)

精子機能異常に根本的な治療法はない

一方、アメリカ疾病対策センター(CDC)が、2015年『American Journal of Public Health』に掲載した、コロンビア大学教授ピーター・ベアマンらの大規模疫学調査データでは、「先天異常と顕微授精との間に因果関係がないとは言い切れない」という見解を出している。

「実際のところ、先天異常と顕微授精・胚盤胞培養・胚盤胞凍結などの技術との間に因果関係がないということを科学的に証明することは極めて困難ですが、安全性が明確に立証できていない現況にあるからこそ因果関係があるという前提で危機管理をすべきであると考えます。

不妊治療の効果や安全性に関して、科学的根拠に基づいたエビデンスが確立していない部分がありますので、今はまだ保険適用を可能にする基準を満たしていない状況なのではないでしょうか」(黒田医師)

黒田医師によると、不妊の約半数は精子の問題であり、単に精子数が少ないとか、運動率が低いだけではなく、見かけだけではわからない隠れた精子機能異常(DNA損傷や卵子との接着に関わる先体機能障害ほか)が多様に潜んでいるという。

「精子機能異常は、精子数や運動率を見る一般的な検査では見極められませんが、高精度な分子生物学的な解析技術を確立しえたことにより、精密に調べられるようになりました
しかも精子機能異常の背景には、難しい理論になりますが、新生点突然変異(デノボピンポイントミューテーション)という遺伝子異常が関与している可能性が高いため、根本的な治療法はありません。その点を踏まえると『治療をやめる勇気』が必要な場合も出てきます」(

遺伝子異常による精子機能異常の場合には、治療を断念せざるをえないケースもある。精子機能異常が診断されないままに不妊治療を繰り返しても無駄ということだ。現在、顕微授精という技術が男性不妊治療の主流になっているが、遺伝子異常による精子異常が多い男性不妊に対しては、“顕微授精が万能ではない”という事実を認識しなくてはならないという。

法整備も含めてガイドラインの確立が必須

「命を生み出す不妊治療では、何より安全が最優先されなくてはなりません。だからこそ、先天異常と不妊治療技術との因果関係を完全に否定できない現状において保険適用になった場合には、出生児に何か問題が認められたときには、医療機関に限らず、むしろ国も責任を負う可能性が残るのではないかと危惧します。

また保険適用になることで、一律保険点数内で管理された技術の提供に収めざるをえない状況になると医療の質が低下し、その結果2次的な社会問題が発生するリスクも否定できません」(黒田医師)

金銭的なハードルが低くなることで、女性側からすると不妊治療を諦めるタイミングの難しさも出てくるだろう。菅首相の一言で持ち上がった不妊治療の保険適用化だが、同時に法整備も国を挙げて対応していかないと、少子化問題の解決にはならず、机上の空論で終わってしまうかもしれない。

不妊治療はすでに確立された医療のように思えるが、実は、誕生する命の安全保証という視点からみると、いまだ発展途上にあると改めて認識すべきだ。少なくとも不妊治療に携わる医療従事者の知識や技術が標準化され、不妊治療に関する法整備も含めてガイドラインが確立されることが何より大事なのではないだろうか。


引用元:
不妊治療の保険適用で浮かび上がる「根本問題」(東洋経済オンライン)