採卵日に精子が最悪状態という悲劇
 体外受精や顕微授精を行う場合、精子も卵子も生ものですから通常、採卵予定日に卵子が採れた後、精液を採取してもらいます。精子の状態がいつでも良い男性なら、これで問題はありませんが、射精のたびに精子の状態が大きく変わる人もいます。一番悲劇的なのは、事前の精液検査では精子の状態が良かったのに、採卵当日は精子が最悪状態になってしまった場合です。このような場合、従来の「卵子が先」の不妊治療モデルでは、その状態が悪い精子の中から1匹を選び、顕微授精を行うしかありません。

 前回、精子を卵子に注入する顕微授精よりも、精子が自力で卵子に入る体外受精の方が自然で安全性が高い、とお話ししました。私たちが研究している「TDCプロトコール」(TDCは東京歯科大の略、プロトコールは手順の意味)は、できるだけ体外受精での妊娠を目指す戦略をまとめたものです。

精子貯金のすすめ 「千尋の谷に突き落とす方式」で選抜して凍結保存
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 そのうち、精子の選別・検査の高度化と、精子の数を節約できる体外受精「人工卵管法」( 前回コラム参照 )については説明しましたが、もう一つの重要な技術が「精子の貯金」です。これは、精液を毎週採取し、その中から精子を選別し、精密検査も行い、合格した精子だけを凍結保存するというものです。

 このようにして準備できた精子の「数と質」のデータを基にすれば、「人工卵管法」による体外受精が可能なのか、それとも顕微授精に頼らざるを得ないのか、逆算する裏技が使えます。精子側に「勝ち目」がある、つまり、妊娠が期待できるからこそ、女性の体に大きな負担がかかる排卵誘発や、外科手術である採卵を行う意味があるのです。

「精子の貯金」は絵に描いた餅
 ちょっと牛の話をさせてくだい。牛を繁殖させる場合、雄は何万頭もの候補から、雌牛を妊娠させる力が強いうえ、「肉がおいしい」「乳をたくさん出す」などの優れた性質を持った子牛を生ませる力がある個体が選ばれます。その雄牛1頭が、多くの雌牛に一括して精液を提供します。

 射精1回分の精液は何百にも小分けされ、−196℃の液体窒素の中で凍結保存されます。この1本を融解して、雌牛の子宮に入れると、約50%が妊娠します。世界中の牛は、凍結保存精子による人工授精で生まれているのです。

 精液の状態が悪い男性から精子を選別して貯金できれば、治療の選択肢が広がります。私たちの研究チームも、牛の研究を参考に凍結法をいろいろ工夫しました。結果を申し上げますと、「精子の貯金」は絵に描いた餅でした。精子の状態が良い方ではうまくいくのですが、肝心の精子の状態が悪い方は、解凍した後に運動性が維持できず、実用レベルには達しませんでした。

発想の転換、凍結保存で細胞膜が弱い精子を排除する
 ですが、ある時、DNAに傷がない運動精子を選別してから凍結すると、解凍後も運動性を維持している精子が多いことに気づきました。さらに私たちは、解凍後に泳いでいる精子と動かなくなった精子を分離する方法を開発しました。そして、精子が動かなくなったのは、細胞膜についた傷が原因であることがわかりました。

 精子の選別という観点から考えると、凍結保存は、DNAに傷はないものの、細胞膜が弱い運動精子を排除する手段だったのです。私たちは、これを「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす方式」と呼んでいます。谷底から 這は い上がって来た、強い精子が欲しいのであり、精子選別に凍結保存を組み込み、ひたすら貯金に励むわけです。融解後に生き残る精子がたとえわずかでも、ひたすら預金しておけば良いのです。そして人工卵管法によって精子を節約できれば、顕微授精を回避できる可能性が高まります。

 ただし、精子の状態がいつも非常に悪く、解凍後に全ての精子が運動性を失う場合、現状では、このような方は凍結せず、採卵当日の精子で顕微授精をすることになります。お見せする動画は、状態が良い方の精子で、解凍後でも凍結前と同じくらいに多くの精子が活発に泳いでいます。

不妊治療の限界 精子提供という選択肢
 しばらく前まで、非配偶者間の生殖補助医療と言えば精子提供しかありませんでした。もともと、精子は体外で扱えるからです。ところが、卵子も体外に取り出し、受精卵にして子宮に戻すことが技術的に可能になると、精子、卵子、子宮それぞれについて、配偶者のものか、非配偶者のものか、選ぶ余地が生まれ、複雑な組み合わせが生じました。

 すでに卵子については、様々な理由で自分の卵子では妊娠が困難になった女性への第三者からの卵子提供が広がってきています。一方、精子の場合、1匹でもいれば顕微授精ができるので、ほとんどの場合、精子提供は避けられるというイメージが定着しています。さらに、誰が遺伝上の父親なのかという出自を知る権利と、精子提供者の情報秘匿の対立といった倫理的問題などで、精子提供の実施には近年、強い逆風が吹いています。

 しかし、この連載で繰り返し述べてきたことですが、顕微授精を含めたすべての生殖補助医療は、精子の「質」の問題への対処には限界があります。精子の精密検査が普及すると、現在の基準では「良好」とされている精子に様々な異常が見つかり、それらが治療困難なものである場合、その男性は突然、女性を妊娠させられない側に「転落」してしまうのです。

 極論すれば、精子濃度が1億匹/㎖と濃く、運動率(元気な精子の割合)が80%と高い、見た目の良い精液であっても、治療を断念しなければならないケースが出てきます。それでも子どもを望むなら、選択肢の一つとして、精子提供を考慮しなくてはなりません。幅広い論議が必要になります。(東京歯科大学市川総合病院・精子研究チーム)

引用元:
精子貯金のすすめ 凍結保存は「我が子を千尋の谷に突き落とす方式」(ヨミドクター)