素人でもわかる様々な形態異常の存在

 これまで様々な精子の写真をお見せしてきましたが、造精機能障害がひどくなると、頭部が 楕だ円えん 形の良好な精子は姿を消し、素人でもすぐにわかるほど、精子の形が崩れてきます。これは、体の中で精子にだけ見られる現象であり、私たちは、これを「細胞崩壊」と呼んでいます。

 写真は、様々な精子の異常形態をまとめたものです。状態の悪い精子と毎日にらめっこしている私たちは、研究が進めば進むほど「ヒト精子性悪説」に傾いていきました。その理由を説明しましょう。

悪い細胞というと、みなさんはまず、がん細胞が頭に浮かぶと思います。正常な細胞ががん化する背景には遺伝子の異常があります。これは精子の場合とよく似ています。それでは、精子とがん細胞を比べてみましょう。

 「ヒトの体では1日に10万個のがん細胞が発生するが、免疫細胞がこれを食べて守ってくれる。そして、それをすり抜けたがん細胞が長い時間をかけて育ち、がんになる」といった話を聞いたことがあると思います。実は、ひどく変化した細胞は免疫細胞に見つかってしまいます。いくら、がん細胞といえども、素人がぱっと見てわかるほど形が変化するわけではありません。

精子を免疫細胞から守る仕組み

 一方、精子は思春期以降に生産が始まるので、自分自身の細胞であるにもかかわらず、もともと免疫細胞に狙われやすいという弱点があります。このため、精巣(精子)を免疫細胞から隔離するための様々な仕組みが存在しており、「免疫特権」と呼ばれています。この仕組みがあるため、造られた精子がどんなに細胞崩壊しても、免疫細胞のチェックをすり抜けて精液の中に出てきてしまうのです。

選別するレベルではない細胞崩壊精子

 造精機能障害のため、造られる精子の数が減るだけなら、顕微授精は合理的な方法です。しかし、重症の方は、まさに細胞崩壊という言葉でしか語れないほど精子の機能・形態異常が進行します。しかも、問題が起きた遺伝子の組み合わせは各人で異なるので、異常の表れ方に個人差が大きいのが特徴です。私たちは、選別によって質の悪い精子をどの程度まで排除できたか、精密検査で確認する研究をしてきました。細胞崩壊が進んで、もはや選別を検討するレベルではなくなった時、私たちにできることは限られたものになります。

これまで顕微授精は、どのようにして精子を卵子に入れるか、細かく論議してきましたが、どのような精子を選ぶかについては「良好精子」という漠然としたイメージのみで、はっきりとした基準がありませんでした。写真は、重度造精機能障害の精液を遠心分離して濃縮したものです。頭部が 楕だ円えん 形の元気に動いている精子(良好精子)は全くいません。

 造精機能の状態を三つのカテゴリーに分けて考えてみましょう。

 第1は、奥様に問題がない場合、避妊しなければ妊娠する男性です。第2は、選別すれば、頭部が楕円形の運動精子が得られる男性です。この場合も、精子の内部に様々な異常が隠れている場合があることを忘れてはいけません。

 第3は重度造精機能障害で、今回の写真のように選別を検討するレベルではない男性です。もし、この状態で顕微授精をする場合、培養士はこの中から比較的「まし」なものを探すしかありません。詳しい精子検査の結果をふまえて、そもそも不妊治療が可能かどうかを判断する「精子が先、不妊治療モデル」を私たちが提案する理由が、おわかりいただけると思います。

今こそ、治療の限界を議論すべき

 今後、精子の精密検査が普及すると、患者夫婦は精子の現実を写真や動画で見ることになります。夫が第3のカテゴリーであることが判明した夫婦にとって、顕微授精は最後の希望だったかもしれませんが、それは第1、第2のカテゴリーを対象としたものであり、第3のカテゴリーの方の精子で妊娠する可能性は大変に低いと言わざるを得ません。

 今こそ、治療する側は、精子の状態がどこまで悪くなったら、顕微授精あるいは不妊治療自体を中止するのか、治療の限界を論議すべき時です。もちろん、やる、やらないを最終的に決めるのは夫婦です。そのためにも治療者側、患者側双方が、精子精密検査の情報を共有することがとても重要になります。

 こうした研究を通じて、私たちは用心深く、ヒト精子性悪説の立場をとるようになりました。精子の質に関する理解が進めば進むほど、どの精子を選んで顕微授精を行うべきか、最終判断をする培養士の責任は重くなっていきます。(東京歯科大学市川総合病院・精子研究チーム)


引用元:
精子は「細胞崩壊」しても排除されず、精液の中に…「ヒト精子性悪説」(読売新聞)