前回のコラムで、新型出生前診断で胎児に染色体異常があると分かると、90%以上の頻度で人工妊娠中絶が行われていると書きました。病気の赤ちゃんを 堕お ろすことを、医学的に「選択的人工妊娠中絶」と言います。読者のみなさんは、これを当然と思いますか? 実は、選択的人工妊娠中絶は法律で認められていません。

今も存在する堕胎罪 例外規定は…
 日本には現在でも「堕胎罪」(刑法212〜216条)が存在していることは、あまり知られていないようです。堕胎という行為は犯罪になるのです。確かにそれは正しいかもしれません。カップルの間に赤ちゃんができて女性が産むつもりでいるのに、男性が出産に反対し、女性に対して薬物や外力を使って赤ちゃんが流産となったら、罪に問うのは理にかなっています。

 ですが、この法律には例外規定があります。それが母体保護法です。同法の14条に基づき、「妊娠の継続又は 分娩ぶんべん が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの」と、「暴行 若も しくは脅迫によって又は抵抗若しくは拒絶することができない間に 姦淫かんいん されて妊娠したもの」は、指定医師による人工妊娠中絶が許されています。

 これもまた当然でしょう。父親の分からない妊娠や、未婚の妊娠、あるいは不倫の末の妊娠などで男性が責任を取らないとき、女性にとって、子どもを育てていくのが経済的に困難なケースは多いと考えられます。こうした望まれない妊娠では、経済的理由による人工妊娠中絶が法的に認められているのです。性犯罪によって女性が妊娠してしまった場合に認められているのも、当然と言えましょう。

議論の末、追加されなかった「胎児条項」
 では、胎児に病気があると分かった場合の人工妊娠中絶はどうなのでしょうか?

 それが認められるとは、母体保護法に書かれていません。しかし、これまでまったく議論されてこなかったわけではなく、母体保護法に改称される前の旧優生保護法に「胎児条項」が追加されそうになったことがあります。その内容は、こういうものです。

 「胎児が重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有している 虞おそ れが著しいと認められるもの」を人工妊娠中絶の適応に加える――。

 この胎児条項は、政治の場でも市民の間でも議論になりました。日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」は、胎児条項に強く抗議しました。「疾病のある胎児が人工妊娠中絶の対象になれば、次は自分たちが殺されかねない」と青い芝の会のメンバーたちは考えたのです。

 そして議論の末、胎児条項が優生保護法に書き加えられることはありませんでした。この改正案は廃案になったのです。1972年のことです。この議論の経過を踏まえるのであれば、現在でも胎児の「疾病や欠陥」を理由に妊娠を中絶することは法的に認められていないということになります。

病気の赤ちゃんが生まれたら、母体の健康を害する?
 ところが、実際には「疾病や欠陥」のある胎児の人工妊娠中絶は普通に行われています。どういう理屈でしょうか?

 理屈はありません。病気を持った赤ちゃんが生まれたら「身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害する」という「こじつけ」がまかり通っているからです。

先天性風疹症候群の子 生まれると産科医の責任に
 そのような人工妊娠中絶に関して、産科医の立場を難しくしているのが「先天性風疹症候群」の問題です。

 産科医が妊婦の風疹感染に気付かずに、先天性風疹症候群の赤ちゃんが生まれてしまうと、産科医は責任を問われます。先天性風疹症候群とは、妊娠初期に母親が風疹に感染することで、赤ちゃんが白内障・難聴・心奇形などを持って生まれてくることを言います。では、先天性風疹症候群の赤ちゃんが生まれてこないようにするためには、どうすればいいのでしょうか?

 もちろん、ワクチンによってこの世から風疹ウイルスを排除してしまうのがベストですが、現実には、そうした可能性ある赤ちゃんに対して人工妊娠中絶を許しているのが司法の考えです。

 胎児条項が法律に存在しないにもかかわらず、先天性風疹症候群に 罹患りかん していると考えられる胎児に対しては、人工妊娠中絶の機会を与えないと責任を問われることもあり得るのですから、産科医の立場は非常に過酷だと言えます。

ダウン症の子出産後 医師を訴え
 2011年には、函館で次のような裁判もありました。

 41歳の妊婦が、ダウン症を心配して羊水検査を受けました。結果は陽性、つまりダウン症でした。ところが産院の院長は、結果を間違って両親に伝えてしまったのです。その結果、当然、母親は赤ちゃんを産みます。生まれた赤ちゃんには病気があり、総合病院に転院し、ダウン症であることが明らかになります。

 この赤ちゃんは、ダウン症の10%に合併すると言われる血液疾患が原因で、生後3か月で死亡します。両親は損害賠償を求めて、産科医を訴えます。もしダウン症と分かっていたら、中絶を選んだ可能性が極めて高いこと、生まれていなければ赤ちゃんは病気に苦しむこともなかったというのが訴訟の理由です。

 アメリカでは、こうしたケースを「Wrongful Birth(間違った誕生)」と言います。また、赤ちゃんの視点から見ると、自分の人生は病気の苦しみの3か月だったので「Wrongful Life(間違った人生)」ということになります。

 結局、司法はWrongful BirthにもWrongful Lifeにも、はっきりとした答えは出しませんでした。しかしながら、「両親は中絶をするかしないかの判断の機会を奪われた」として、医師に賠償を命じました。

 かつて廃案になった胎児条項に基づくような判決には違和感を覚えますが、実際にはダウン症=21トリソミーの赤ちゃんを人工妊娠中絶しても堕胎罪に問われないのですから、現状を追認した判決とも言えます。

もう一度国民的議論を
 青い芝の会が抗議の声をあげて胎児条項が廃案になってから、40年以上がたちます。あの頃と比べ、胎児診断の技術は格段に上がっています。胎児の「疾病や欠陥」を理由に妊娠を中絶することが、いいことなのか、よくないことなのか、もう一度国民的な議論が必要な時期に来ているのかもしれません。そのためには、私たち一人ひとりがこの問題に対して、熟慮することが大事なのではないでしょうか。

引用元:
法で認められない病気や障害のある胎児の「選択的人工妊娠中絶」 では、なぜ現実に行われているのか?(ヨミドクター)