長く日本人の死因の1位を占めているがんは、体を構成する無数の細胞の一つで起きたコピーミスで生まれたがん細胞が体内で免疫などの自己防衛機能の監視をかいくぐりながら増殖して腫瘍を形成、発病する。しかし、一部には特定の遺伝子変異が親から子へと伝わり、その変異が臓器におけるがんの発病リスクを高くする「遺伝性悪性腫瘍」も存在する。20〜30代の発病が多い「遺伝性乳がん卵巣がん症候群」(HBOC)=用語説明参照=も、その一つだ。

 HBOCの中でも患者が比較的多いのが、「BRCA」と呼ばれる遺伝子の変異。この遺伝子は、分裂の際にコピーされるDNAに傷が付いた場合に傷を修復するためのタンパク質を生成させてコピーミスを抑制する遺伝子だ。このBRCA遺伝子に変異があると、修復機能が大きく低下してDNAのコピーミスを起こしやすくなる。特に危険性が高いのが、乳腺や卵巣の細胞だ。ハリウッド映画で活躍している女優のアンジェリーナ・ジョリーさんも、このBRCA変異があったことで知られている。
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危険な遺伝性乳がん・卵巣がん  発症率高める遺伝子変異


遺伝カウンセリングの部屋で語る新井清美准教授=東京都文京区の順天堂大学病院


 ◇急上昇するがん発症率

 順天堂大学医学部付属順天堂病院でゲノム診療センター長を務める新井正美准教授は、「がん研有明(ありあけ)病院」の遺伝子診療部で長年、がん患者や家族らの相談に応じる「遺伝カウンセリング」を担ってきた。現在は、同病院の遺伝子専門外来で診察にも携わっている。新井准教授は「海外の研究では、HBOCを起こす遺伝子変異を持つ人は400人から500人に1人。確率は低いように見えるが、ほかの遺伝性疾患と比べるとかなり高い」と指摘する。中でもBRCA変異が確認された場合、乳がんの発病率が9%から70%に、卵巣がんは1%から40%へと大幅に上がってしまい、特別な対策が必要になる、と言う。
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 ◇予防手術選んだジョリーさん

 対策としては、より間隔を狭めた上で複数の方法を組み合わせた検診を続けて早期発見・治療を目指すのが一般的だ。がんが発病する乳房や卵巣を発病前に切除する予防手術という選択肢があるが、健康保険は適用されない。

 予防手術は、ジョリーさんが2013年に左右の乳房で受けたことで大きな話題になり、知られるようになった。ジョリーさんは15年にも、卵巣と卵管でも同様の予防手術を受けている。

 ジョリーさんの母と伯母は、乳がんと卵巣がんで死亡している。さらにジョリーさん自身もBRCA変異があることが判明していて、医師から発病リスクが乳がんで9割近く、卵巣がんで5割と告げられていたという。


 ◇より厳しい卵巣がん

 乳がんでは、有効な検診方法が確立されている。平均的に乳がんの発症率のピークは40代だが、変異があるとより若い20〜30代でも発病率が高くなる。このため検診も、この年齢からマンモグラフィと超音波エコーなど複数の検査手段を組み合わせ、回数を増やして実施することが勧められている。

 しかし、同じBRCA変異の影響を受けるのに、有効な検診方法が確立されていないとされている卵巣がんの場合は「出産希望の有無や、卵巣切除による悪影響を考慮しながら、予防的手術を勧めることがある」と、新井准教授は厳しい状況を説明する。手術後には女性ホルモンが欠乏し、骨粗しょう症やさまざまな更年期障害に悩まされてしまうケースがある。
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 ◇カギは血縁者のがん

 乳がんを早期に発見できたとしても問題は残る。現在は、腫瘍を含む乳房の一部だけを切除する温存手術を選択する患者が多い。しかし、HBOCの場合は再発の確率が高いため、乳房全体を切除する全摘手術を余技なくされることも多い。新井准教授は「手術後の経過観察の頻度や精度も高くして、再発に備える必要がある」と説明する。

 BRCA変異の遺伝子検査を受けるタイミングも重要になる。早期発見を考えれば若い方がよいが、遺伝子情報をどこまで知るかは一定の判断力が求められるし、費用もかかる。新井准教授は「一番分かりやすいのは、血縁のある家族に乳がんや卵巣がんを発症した人が複数いた場合だ。また現在では、BRCA異常のある乳がんを対象にした化学療法もあるので、乳がんや卵巣がんが発見された時点も一つのタイミングと言える。がんの悪性度の評価や治療法の選択にも大きく影響するからだ」と語る

 ただ、HBOCは患者本人にとどまらない問題という面も見逃せない。血縁親族もBRCAである可能性が50%あるからだ。「直接的な表現をすれば、姉妹や娘、いとこやめいにも乳がんや卵巣がんになるリスクが高い可能性がある。これをどう伝えるか、あるいは伝えないのか、医師側としては非常に微妙な問題に直面させられる」


◇家族への情報提供が重要

 このため、事前に専門の医師などによる丁寧な遺伝子カウンセリングを受け、家族とも話し合うことが欠かせないだろう。遺伝子検査で何が分かり、何が分からないか。そしてその確度はどの程度なのかはもちろん、判明した問題がどのような影響を、どの範囲に与えるかまで、十分に理解してもらうことが重要だからだ。

 BRCA変異自体の治療はできない。結果としてこの変異があった親族一人ひとりが、患者と同じように「乳がんや卵巣がんになりやすく、重症化しやすい」という問題を一生抱えていくことになる。「こんな事実を『知りたくなかった』と考える人が出ても不思議はないだろうが、検診の徹底による早期発見・治療につなげられるなど、メリットも大きい」と新井准教授は理解を求める。世界保健機関(WHO)も「(遺伝的情報を)家族に伝えるのは道徳的義務だ」とのコメントも発している。ただし、その前提として、医療側ががんの告知と同様の慎重な対応と情報提供が求められることは間違いない。
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 ◇用語説明 「遺伝性乳がん卵巣がん症候群」(HBOC)

 特定の遺伝子に変異や組み替えが生じていることで、乳がんや卵巣がんを発症しやすい遺伝的な体質。遺伝子異常は遺伝するため、家系的に発病率が高くなる。乳がんで全体の約5%、卵巣がんで約10%を占めるほか、比較的若い年齢に発病する事例が多い。一度治療が成功しても、繰り返しがんを発病する可能性が高くなる。(時事通信社 喜多壮太郎・鈴木豊)


引用元:
危険な遺伝性乳がん・卵巣がん  発症率高める遺伝子変異(jiji.com)