現在注目されている「男性不妊」。前回に続き、『本当は怖い不妊治療』(SB新書)の監修者で、ヒト精子の研究を専攻してきた臨床精子学の第一人者でもある黒田優佳子医師に、不妊治療における「精子の選定」について聞いた。(ジャーナリスト 草薙厚子)

顕微授精のキーマン「胚培養士」は大丈夫か

多くの不妊治療クリニックにおいて、「卵子」や「胚」のみならず「精子」まで取り扱うのが「胚培養士」である。

 胚培養士として認定されるには、2つの道がある。1つは「日本卵子学会」の講習と筆記試験および口述試験により認定を受ける道、もう1つは「日本臨床エンブリオロジスト学会」が実施する研修への2回以上の参加と実際の業務を行い、面接と筆記で認定されるという道だ。統一されているわけではないため、それぞれの胚培養士の知識や技術には、差が出てくる。

 これらはいずれも、民間組織が認定する資格である。アメリカ、イギリスやオランダなどのヨーロッパ各国と異なり、公的な医療資格ではない分、難易度は高くないという。しかし、日本は不妊治療件数の急激な増加に伴って世界最多の不妊治療大国になった一方、胚培養士の育成が追いついていない。また、不妊治療クリニック間において、胚培養士の引き抜きも頻繁に見られる。

 前回記事(『不妊の半数は男性が原因!「精子自体の異常」に関心高まる』)で述べたように、不妊の約半数は精子の品質が問題で起きている。

 現在、顕微授精は精子の状態が悪い男性の唯一の治療法とされ、不妊治療に用いられる技術(生殖補助医療)の約8割を占めている。そして、多くの不妊治療クリニックでは、医師ではなく胚培養士が顕微授精を実施している。

 これまで、胚培養士が「どのように精子を穿刺(せんし)するか」については、詳細に議論されてきた。しかし、「どのような精子を穿刺するか」に関する明確な基準はなく、多くのクリニックは「顕微鏡でのぞいたときに元気良く泳いでいる精子を選びます」と患者に説明している。患者側も顕微鏡のモニターを見て、精子が勢いよく泳いでいれば安心するだろう。しかし、実際はそんな単純な話ではないという。

「受精してはいけない精子」も顕微授精されてしまう!

「先体(精子頭部の前半部を覆う袋状の小器官のこと)の中には、卵子に侵入する際に必要となる酵素が入っています。その酵素が卵子と接着するときに放出され、卵子への侵入が可能になるのです。この一連のプロセスを『先体反応』といいます。受精するために精子が卵子に侵入するには、このプロセスが必須なのです。顕微授精は人工的に針で卵子に穴を開けて精子を注入するため、先体反応のプロセスをパスできますが、それによって本来受精できない精子、もしくは受精してはいけない精子の卵子への侵入を可能にしてしまうというリスクもあるのです」(黒田医師、以下同)

 多くの不妊治療クリニックでは、顕微授精に用いる1匹の精子を選別する基準を「頭部の外周形状が楕円で、きちんと泳いでいる精子」と定めており、この条件をクリアした精子を「正常」と判定している。

「しかし、その中にも『先体』の異常や、その下に穴が開いているものがあり、これを『頭部空胞化精子』といいます。また『DNA断片化陽性精子』(DNAが損傷している精子)など、機能異常を有する精子が混在しているのも事実です。『元気に泳いでいる』という見かけだけでは、隠れている精子機能の異常を把握できません。まさに『どのような運動精子を顕微授精に用いるかが、不妊治療の安全性に直結する』ということです」

精子頭部の中に空胞がある場合、その部分はDNAの密度が低いことが明らかになっている。ただし現在、頭部空胞とDNA損傷の因果関係はまだわかっていない。

「多くの不妊治療クリニックにおける顕微授精の実施は、『頭部の形態が良い運動精子ならば良好精子である』というわかりやすい指標をもとに、国家資格を持つ医師ではなく、認定資格である胚培養士の判断に任されています。本来、医療行為である顕微授精の業務に、国家資格のない胚培養士が携わっていることは、責任の所在を明確にする必要性が生じた際には大きな問題になるのではないでしょうか。生殖補助医療業界全体として、根本的に見直すことも急務であると考えています」


精子の品質無視の発想は「ウシの繁殖」から生まれた

 胚培養士マニュアルには、「どのような性質を有した精子を注入すれば安全か」、すなわち「精子の質的保証」に関する記述は見当たらない。現状の精子選別基準は、運動精子=良好精子と考えられ、「1匹でも運動精子がいれば顕微授精で妊娠できる」と宣伝されている。

「現場ではこの点に関する認識も極めて甘く、顕微授精の手技そのものは医療技術ではないと言い切っている専門家もおられます。しかし、1匹の精子を選ぶことは命の選択になります。また顕微授精は、卵子における『微小細胞外科』という概念に入り、生命を誕生させるという大変に責任が重い医療行為になると考えられます。医療行為には必ずリスクが伴うのです。顕微授精も例外ではありません」

 また、不妊治療に用いられる精子側の技術は、家畜繁殖業界から導入されたという背景があり、このことも問題だという。

 例えばウシの場合、約10万頭の候補から個体選抜された1頭の雄ウシが「種ウシ」となって、一元的にメスに精子を提供する。すなわち選び抜かれた種ウシの場合、精子の品質が極めて良好で精子間にばらつきがなく、運動精子であれば、DNA構造も含む精子機能もほぼ全て正常であるという「精子性善説」が成立している。言い換えれば、種ウシにおいては「運動精子」=「良好な質の高い精子」というシンプルなロジックが成り立っているということだ。

 一方、上述したように、ヒトの場合は、頭部の外周形状が楕円の運動精子の中にも多様な機能異常の精子が混在しており、「精子性善説」が成立していないという。

「ヒト精子においては、運動精子イコール良好な精子ではありません。妊孕(ようにん)性(妊娠のしやすさ)が認められた男性の運動精子であっても、その中に質の悪い機能異常の精子も混ざっています。まさにヒト精子についても、種ウシ精子と同じように考えてしまったことに、大きな落とし穴があったのです。また顕微授精の対象となる、重い精子形成障害が見られる男性の精子機能を詳しく調べてみると、運動が良好な精子であっても、様々な機能異常が見つかることの方が多いのです」


顕微授精は精子の状態が悪い男性には向かない

 顕微授精では、必要とする精子は1匹で良いため、精子の数の少なさをカバーすることができるが、DNA損傷などの精子機能の質的な異常をカバーすることはできない。要するに、精子の状態が悪い男性には不向きな治療なのだ。しかし現状では、生殖補助医療の約8割を占めており、精子の状態が悪い男性の唯一の治療法になっている。ここに大きな矛盾があるという。

「精子に関する知識の不足と、精子技術の出遅れなどが、『顕微授精ならば精子の状態が悪くても、1匹でも精子がいれば妊娠可能である』というイメージにつながったのではないでしょうか。また生殖補助医療業界全体として、顕微授精で穿刺する精子を選ぶ際に明確な基準がないことに対して疑問が持たれることがなく、生まれてくる子は当然健常であると信じられてきました。今日まで、顕微授精で生まれた子どもの先天異常をはじめとするリスクに目が向けられることはありませんでした」

 細胞には遺伝情報を正確に伝達するために、傷ついたDNAを修復する機構が備わっている。この「DNA修復機構」は、細胞の正常性を維持するために必須であり、極めて重要な仕組みだ。例えば、皮膚や肝臓などの一般的な細胞では、DNAが多少損傷しても、細胞自身が持っている「DNA修復酵素」によって修復される。これはヒトの卵子も同様である。

 一方、ヒトの精子は、精子が造られる過程でDNA修復能力が失われてしまうという、特殊なDNA修復機構を備えており、DNA修復酵素を持っていない。その結果、損傷したDNAは修復されることなく残り、射精された精子の一部にDNAが損傷した精子が混在していくことになる。

 その頻度は個人差が大きく、損傷程度も精子ごとに大きく異なるという。DNAが損傷した精子は、卵子に侵入した後に、卵子が持っているDNA修復酵素によって修復されるが、不完全な修復にとどまったり、修復されないまま、というケースもあるという。


精子の選別基準見直しなど生殖補助医療全体の改革が急務

 そのため、特に顕微授精では、DNA損傷のない精子をきちんと選ぶことが極めて重要になってくる。日本産科婦人科学会も2009年、「精子数や運動率は、必ずしも精子の質を直接反映するものではない」とコメントしている。それにもかかわらず、多くの不妊治療クリニックの医師や胚培養士は、患者に「大事なのは運動率と数」と伝えている。運動精子のDNAは正常であるという「精子性善説」が大前提になっているのだ。

「現状では、精子機能異常と先天異常との因果関係は明らかになっていません。しかし、リスクマネジメントの観点から、『疑わしきは回避する』という考え方が、生命を誕生させる医療に携わる医師としてのポリシーであると思っております。今後、精子の選別基準の見直し、それに伴う顕微授精の適応範囲を明確にする必要があり、胚培養士の『精子に関する知識、技術レベル』を向上させると同時に、生殖補助医療業界全体の意識改革も急がれます」

 不妊治療は自由診療であるため、患者側の金額の負担は大きい。そのため、女性側に任せっきりではなく、男性側も事前に精子に関する基本的な情報を知った上で、クリニックの門をたたくべきだ。


引用元:
不妊治療、「元気に泳ぐ精子は顕微授精OK」のウソ(ダイヤモンド・オンライン)