“21世紀最大の謎の一つ”赤ちゃんに迫る

 「赤ちゃん学」をご存じですか? 赤ちゃんは“ヒトの始まり”という観点から、その名の通り赤ちゃんをあらゆる角度から研究する学問で、赤ちゃんの運動、認知、感覚、言語機能や社会性の発達とその障害のメカニズムの解明からヒトの心の発達までを対象としています。2001年に「日本赤ちゃん学会」が設立され、小児科学、発達認知心理学、発達神経学、脳科学、教育学、保育学、物理学、ロボット工学などの異分野が連携・融合した研究が進められています。これまでの研究成果をもとに、胎児期からの赤ちゃんの発達過程やそのメカニズムについて、それぞれの専門家が解説する全10回の講義「赤ちゃん学入門講座〜ヒトのはじまりを科学で探る〜」が、このほど同志社大学東京サテライト・キャンパス(東京都中央区)で始まりました。保育や育児、ヒトに関わるすべての人にとってヒントとなる最新の知見が紹介されます。この連載では、全10回の講座の内容をお伝えし、“21世紀最大の謎の一つ”といわれる赤ちゃんに迫ります。

 初回のテーマは「赤ちゃんの『触る』」です。日本赤ちゃん学会の理事長を務める小西行郎・同志社大学赤ちゃん学研究センター長が、ヒトの五感の中でも自己の身体の認知や運動機能の発達にも関わる「触覚」について、その重要性や触覚に配慮する育児や保育の方法について解説します。【編集部・鈴木敬子】

赤ちゃんは自ら動く存在

 まず初めに、私と「赤ちゃん学」の出合いをお話ししましょう。私は小児科医ですが、医師になってしばらくたった頃、なぜ赤ちゃんが動くのか学び直したいと思い、オランダのフローニンゲン大学で、発達神経学の第一人者であるプレヒテル教授に師事しました。1990年のことです。今も小児科の教科書には、赤ちゃんの手のひらを触るとぎゅっと手を握るように、赤ちゃんの動きは「原始反射」だと書いてあります。しかし、留学先ではその常識を覆されました。生まれたばかりの赤ちゃんは自分でモゾモゾと動いていますよね。これは今日のテーマである「触る」と関係が深いのですが、赤ちゃんは自ら動くと考えるか、刺激されて初めて動くと考えるかはとても大きな差で、これは育児観にも影響するものです。

1980年代に赤ちゃんのさまざまな能力が科学的に明らかになり、赤ちゃんはお母さんの顔を認知しているとか、生後5カ月の赤ちゃんは足し算ができるなどの話が広がっていました。こうした赤ちゃんの不思議を研究するには、小児科領域だけでなく、異分野と連携した研究が必要だと思い、2001年、赤ちゃん学会を設立しました。ヒトの人生は「おぎゃー」と産声を上げたときから始まるという意見もありますが、これは胎児の行動が理解されていないことの裏返しでもあります。我々はヒトの始まりを受精したときと捉え、新生児の行動は胎児の行動から連続していると考えています。つまり、胎児期の解明も赤ちゃん学会の使命なのです。

触覚は自ら動き、ものを認識するために重要

 さて、本題に移りましょう。ヒトの五感のうち、赤ちゃんにとっては触覚が最も重要です。視覚は目、聴覚は耳というように、五感には専門の器官がありますが、触覚は五感のなかで唯一専門の器官がなく、全身にあるものです。もし触覚がなくなると、自分の体が分かりません。自分の体が分からなければ、自分というものを理解できなくなります。私は先天的に触覚に異常があり、痛みを感じることができない子どもの主治医になったことがありますが、その子は歩幅をこれ以上広げると痛いという感覚がないので骨折してしまい、歩けません。触覚に障害があると大変なのです。

 「触覚」には2種類あります。「触る」と「触られる」、つまり能動的か受動的かという違いです。触ってあげると赤ちゃんは幸せになるとよく言われますが、赤ちゃん学では赤ちゃんが能動的に触る感覚が重要と考えています。自らが動き、あらゆるものを認識するために必要だからです。

赤ちゃんは痛みを忘れる

 触覚は五感の中で最も初期に出現します。一説によれば明確に手足に触覚が宿るのは妊娠9〜10週ごろです。このころに触られると反応する原始反射が生まれるのは、触覚ができるからといえます。妊娠25〜26週ごろに触覚を刺激すると、大脳皮質にある体性感覚野が発火(活性化)することも分かっています。このころ他の“四感”はまだ発達しておらず、胎児期の半分は触覚だけで生きているのです。ただ、胎児の頭には触覚や痛覚がないと言われています。なぜなら狭い産道を通るためです。本当にうまくできていますね。

 長い間、赤ちゃんに痛覚はないと考えられていましたが、研究が進み、痛覚の存在が確認されました。痛みを感じた時は空腹時などよりも泣き声が強く、音程も高いほか、血中ストレスホルモンが上昇し、呼吸が速くなり、心拍数も上昇します。痛みは抱っこしたり、母乳を与えたりすることで緩和されます。痛覚があると聞くと、痛い思いをさせてはいけないと考える人もいると思いますが、2歳くらいまでの子どもは痛みを忘れます。これを幼児健忘症と呼びます。忘れなければ新しいことは頭に入りませんから、大切な能力の一つです。赤ちゃんは情報を取捨選択して自ら忘れるのです。

触覚が最初に発達するのは口の周り

 触覚が生まれるのは、どこからでしょうか。これは口の周りからです。赤ちゃんに目隠しをして乳首を吸わせ、その乳首を形状の違った複数の乳首の間に置いておくと、赤ちゃんは必ず自分で吸った乳首を覚えています。触覚は口の周りから指先、全身へと発達します。手を使って物を区別できるのは生後10週ごろ、ゴロゴロ、ツルツルなどの質感が分かるのは6カ月ごろ、さらに微妙な違いを手で区別できるようになるのは1歳半ごろです。

 赤ちゃんの行動に「指しゃぶり」があります。触覚が最も早く出現する口の周りと指先を合わせる行動と捉えることができ、指しゃぶりをする手が利き手と関係しているとの知見もあります。胎児には「向き癖」があり、おなかの中では左右どちらかを向いています。たとえば右を向いている子は右手の指をしゃぶり、左手は頭を触っているのです。口は言葉をしゃべる、ものを食べるなど、一つの場所でさまざまな能力をもっている重要な器官です。口に触る手が利き手、重要な手になるということは言えるでしょう。

生まれた時から「自分」を認識している

 早産(妊娠22〜36週)で生まれた赤ちゃんは、医学的には胎児と考えます。そこで、早産児の手が体のどの部位を触るか、成長の各段階でそれぞれ2時間にわたって観察したデータがあります。誕生後も妊娠週数はそのままカウントし、30週と38週の時に手が頭、顔、口、首・肩、体幹、下肢に触れる回数を調べました。その結果、30週の時はどの部位もよく触っていましたが、出産予定日(40週)に近い38週になると、下肢以外はあまり触らなくなりました。赤ちゃんなりに順番があり、頭、顔、口を触った後に体を触り、最後に足を触るという流れのようです。また、指をしゃぶる時に手をどのように動かすか注目したところ、頬に当たった指に口を持っていくケースと直接指が口に入るケースがありました。この比率を早産の期間にあたる32〜36週と正期産(37〜41週)で比較したところ、32〜36週は差がありませんでしたが、37〜41週では必ず直接指しゃぶりをしていました。お母さん、お父さんが指で赤ちゃんの頬に触ると、指の方に顔を向け、しゃぶろうとします。つまり、おなかの中で成熟した赤ちゃんは生まれてきた時には自分の指と他人の指の違いが分かっているのです。これは自分の体を理解し、自分というものを認識しているということです。

 また、コンピューター上で触覚細胞を埋め込んだ胎児のモデルを作り、動きをシミュレートした研究があります。触覚細胞を正常な分布(不均一で指先などが高密度)で埋め込んだモデルの胎児を動かすと、実際の胎児の行動を観察した時と似たような動作が見られました。一方、触覚の分布を均一にしたところ、手ではなく前腕で顔をなでるような行動に変化しました。この結果から、胎児の運動は触覚に導かれて現れていると言えるでしょう。

赤ちゃんの意思による「触る」を大切に

 赤ちゃんは自発的な運動をする一方で、胎児期から原始反射があることも分かっています。なぜなら、平衡感覚をつかさどる内耳の前庭機能が胎児期から発達しているからです。妊娠10週ごろからお母さんの動きに反応するようになり、12週ごろに頭の位置の変化に応じて、目を動かし始めます。妊娠8カ月ごろにはお母さんが立ったり座ったりすると、原始反射の一つで、手足をビクッとさせ何かにしがみつこうとするような「モロー反射」がみられるようになります。

 こうした原始反射は無意識に起こるものですが、新生児は意識的に手足を動かすことも分かっています。ある有名な研究では、新生児の腕におもりを付けて手を上げられないようにしましたが、新生児はその腕を上げようとしたそうです。この時期には確実に意思があるといえるでしょう。赤ちゃんは意識的な運動と無意識の運動を交錯させながら発達していると考えられますが、この議論はまだ緒に就いたばかりです。

 大人は見て、聞いて、考えて、動くものですが、赤ちゃんは動いて、触れて、見て、考えるという順序をたどります。スキンシップは重要ですが、赤ちゃんが自らの意思で「触る」ことを大切にしてあげましょう。


引用元:
赤ちゃんの「触る」に秘められた深い意味(毎日新聞)