素材の安全性にこだわったリアルな手触りの「乳がん触診シミュレーター」
日本における乳がんの発生率は年々増加しており、女性がかかるがんのトップになった。日本人女性の12人に1人が羅患するというデータもある。早期発見すれば、がんの治療率は格段に高くなる。
その早期発見に役立つ「乳がん触診シミュレーター」を、京都の吉田生物研究所(「吉」は正しくは土の下に口がくる漢字)が開発した。同社で、乳がん触診シミュレーターを実際に触らせてもらった。塩化ビニール製の乳房はフニフニと柔らかい。パンフレットに掲載されている図に示されたところを指先で触れるとゴロンとしたシコリの存在が分かる。位置を変えて2本の指で皮膚を挟むようにすると、引きつれたような“えくぼ”が現れる。
「へぇ、こんな触感なんだ」と指先に記憶させた。
乳がん触診シミュレーター
乳がん触診シミュレーター。6種類のシコリとシコリに間違われることがある肋骨を再現した(クリックで拡大)
乳がんは、自分で発見できる唯一のがんである。早期発見できれば治る率も高い。そのために、医療機関はセルフチェックを推奨している。とはいっても、自分の胸を触ってシコリを感じても、それが良性のシコリなのか、がんなのかは、シロウトには判断がつきかねる。実際にがんのシコリをさわったことがないから、当然だ。
乳がん触診シミュレーターは、乳がんのセルフチェック修得、乳房触診の教育促進を目的に開発された。「乳がん触診シミュレーターは以前からあります」と取材に対応した吉田生物研究所 取締役の吉田浩一氏は語る。
後発となった同社製品の特徴は素材とシコリのリアリティーだ。「当社は、柔らかい皮膚を再現するのにポリ塩化ビニールを使用しています。安全性に配慮し、フタル酸エステル類を使用していません」(浩一氏)。
フタル酸エステル類は、プラスチック製品を柔らかくする可塑剤として使用される。しかし、有害性の懸念があるため、欧米では全ての製品で使用が禁じられているそうだ。日本でも、食器や乳幼児の玩具への使用は禁止されているが、規制がかかっていない製品もある。乳がん触診シミュレーターもその1つだ。
素材の安全性の他に拘ったのが手触りだという。がんのシコリは表面がゴロゴロしている。良性のシコリはツルっとした触感だ。それぞれ特徴はあるのだが、悪性と良性のシコリに明確な差があるわけではない。
既存製品には、悪性のシコリは触るとチクチクするものもあるという。「尖った針の先のような触感を覚えてしまい、悪性のシコリを見過ごしてしまう懸念があります」と浩一氏は言う。
素材の安全性と、リアリティーのあるシコリの再現。この2点が吉田生物研究所に持ち込まれた課題だった。
企業も環境変化に伴って、生き残るために変化していく
吉田生物研究所のWebサイトを見ると、バイオ情報研究部門、文化財部門、教材製作部門などのバナーが並んでいる。トップページに掲載されている写真は、古墳から出土した馬型埴輪や和服の日本人形、恐竜と見まがうような魚の骨。そして、乳房の模型。
生物研究所だからバイオ情報研究をしているのは分かるが、埴輪や人形がどのようにつながっているのかが分からなかった。乳がんシミュレーターもしかり。
吉田生物研究所は、浩一氏の父である吉田秀男氏が昭和38年に創業した。
当時は、学校教育用生物教材を製造販売していたそうだ。病変のある部位をスライスして樹脂で固める包埋標本を製作し大学に納めていた。
薄くスライスした大脳の包埋標本
薄くスライスした大脳の包埋標本(クリックで拡大)
秀男氏は、職人気質で仕事が好きなタイプだという。「他社に相談しても、できないと言われたのですが……」と持ち込まれる案件に対して、これまで研究開発をする中で培った技術を応用できるのでは? とチャレンジしてきた。
「会社も環境変化に伴って、生き残るために変化していかなければなりませんから」と浩一氏は言う。
例えば、京都の料亭から鱧(ハモ)の骨格標本を依頼されたことがある。
ハモは京料理の代表的な食材だ。長くて硬い小骨が多いため、細かく包丁を入れて小骨を切断する「骨切り」という独特の下処理が必要だ。京料理の板前は、ハモの骨切りができるようになれば一人前といわれるそうだ。
ところが、ハモの骨格がどのようになっているのか、誰も知らない。図鑑にも掲載されていない。
人は見たことのないもの、見えないものに興味を持つ。お客さんに「なぜこう切るの?」と尋ねられても、板前さんもハモの骨格を見たことがないから答えられない。
最初は剥製を扱っている企業に打診したが、どこに相談しても「できない」と言われたそうだ。剥製の場合、身を取り出した時に骨がバラけるので資料がなければ元に戻せないのだ。
何年も作りたいと思い続け、自然史博物館の方から紹介を受けて吉田生物研究所に相談に来たという。
X線を撮ったり、骨だけを染色してみたりして、形状や配列を確認したそうだ。キレイにバラして漂白したあと、1本ずつ結合していった。歯だけでも360本以上あり、再現するのに2年以上掛かったそうだ。
世界初のハモの骨格標本は、メディアにも取り上げられた。
「人は見たことのないものを見たいと思う」世界初のハモの骨格標本
「人は見たことのないものを見たいと思う」世界初のハモの骨格標本(クリックで拡大)
「奇跡の一本松」を防腐技術で屋外に保存
吉田生物研究所の玄関脇には、さまざまな標本が展示されている。
巨大なシーラカンスに、魚介類。稲、苔、大根、イチゴ、花。巣を張った蜘蛛。本物のようにリアルなのは、本物だから当然だ。
けれど、乾いたらしぼんでしまうはずの苔が青々とみずみずしい姿を保っているのを見ると不思議な気持ちになる。
みずみずしい苔の標本
みずみずしい苔の標本。博物館などのジオラマに需要があるという(クリックで拡大)
植物は、根にも特長があるため全草を標本にして三重県の大台ケ原に自生する植生を残したいという依頼に応えた
植物は、根にも特長があるため全草を標本にして三重県の大台ケ原に自生する植生を残したいという依頼に応えた(クリックで拡大)
稲の標本
稲の標本。品種による差異を見せるために根から穂先までを標本にしている(クリックで拡大)
稲は、上野にある国立科学博物館から「日本の固有種を全て展示したい」という依頼があり製作したものだ。品種による違いを根から穂先まで全てを見せたいという希望だ。
博物館の企画展で田んぼを再現したときは「ゆきひかり」「きらら」「農林○号」など30種類くらいを展示したことがあるそうだ。
このときは、農協関係の方が展示を見て驚き「なぜ水がないところに稲が生えている」と質問が相次いだ。標本だと気付かずに、疑問を持たれたようだ。学芸員の方が何度も保存処理の説明をしたが、展示期間の終盤には「これに関する質問は吉田生物研究所にお問い合わせください」と異例の張り紙をするくらいに質問が多かったという。
植物に含まれる水分を樹脂に置き換えているため、大根を持つと驚くほど重い。その重みで「標本なんだ」と実感した。
吉田生物研究所の防腐技術が応用された例で有名なのが、陸前高田市気仙町の高田松原跡地に立つ「奇跡の一本松」だろう。2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による津波の直撃を受け、周囲の松の木がなぎ倒された中で、立ったままの状態で残った松の木だ。
震災からの復興や希望を象徴するとして保護する活動が続けられたものの、根が腐り枯死と判断されたため、プロジェクトチームを組みモニュメントとして残すことになった。室内で展示されている文化財であれば空調設備が整っているが、一本松は野外の大型展示物だ。海辺で風雨にさらされる環境にどう耐えるのかが難しかったという。
奇跡の一本松が話題になると、同じく被災地の気仙沼から「龍の松」も同じ技術で残したいと依頼があった。伏見稲荷大社の「根上りの松」の保存にも同社の技術が使われた。「今までやってきた技術を応用し、屋外環境に対応できるように技術を付加したことで文化財以外の分野にも事業が広がりました」と浩一氏はいう。
「忙しい」時に、新しい技術にチャレンジ
「業態的に地味なので、景気の影響を受けて大きく浮き沈みがあるわけではありません」と浩一氏はいう。
社長の秀男氏に持ち前の探究心とチャレンジ精神があり、「他社はできないと言われた」と持ち込まれた課題に対して「どうしたらできるのか?」と考え、「できたら、いいね」と受け入れる姿勢がベースにあるのだろう。
「腰が軽いというか、深く構えずに取り掛かります。受けてからは、当然、悩みますけど」と浩一氏は笑う。
同社に持ち込まれる案件が、他社の技術では決して実現できない……わけではないのでは? そんな筆者の疑問に浩一氏も同意する。
やったことがない案件に対して、チャレンジする前に「ムリムリ」と判断したり、「今、忙しいから」が口癖になっている場合もあるだろう。
「忙しいときこそ、新しいことをやるタイミング」というのが浩一氏の説明だ。
もちろん、他の仕事もあるから負担はかかる。けれど、事業には必ず波がある。落ちているときには、会社に余裕がない。軍資金がなければ、設備投資もできない。「忙しいから、チャレンジをする余裕がある」という発想だ。その中から、新規事業につながる芽がある。
もちろん、数千万円の設備投資が掛かるようなことはできない。けれど、従来の技術に新しい価値を付加して、解決できる課題もある。
社内で、技術が転用できそうな新たな課題を見つけるのは難しいが、どの業界にも「もう少し○○だったらいいのに」という要望はある。その業界内では解決できない場合、インターネットで検索して解決できる技術を持っている企業を探すだろう。
モノがモノを呼び、技術が次の案件を呼ぶ。吉田生物研究所は、そのように、事業を拡大してきた。
触って診断できる「未来型シミュレーター」
乳がん触診シミュレーターも、他の医療用モデルの開発案件があり、フタル酸エステル類に替わる可塑剤を開発して塩化ビニールを柔らかくする研究を進めていたから、対応ができた。
乳がん触診シミュレーターは、現在、主に自治体や保険会社に向けて営業を行っている。2016年8月には、新規性が評価され京都府の新商品・サービス販売促進支援制度の「京都チャレンジ・バイ」に認定された。社会福祉施設、病院、介護サービス事業者等が認定商品を購入する際には京都府から助成金が出るようになった。
乳がん触診シミュレーターの営業を担当する浅井千鶴さん
乳がん触診シミュレーターの営業を担当する浅井千鶴さん。「啓発活動の力になりたい」と語る
まだ全ての自治体がシミュレーターを導入しているわけではない。従来品を使用していても、経年劣化で材料内のフタル酸がしみ出してくると表面がベタついてしまい使えなくなり倉庫にしまわれているケースもある。乳がん触診シミュレーターの営業を担当する浅井千鶴さんは、「乳がんは、転移しやすいので早めに気づいて。少しでも不安があれば病院に行ってほしい」という。
唯一自分で発見できるがんだから、啓蒙パンフレットや口頭の説明では伝えきれない触覚を体感してほしい。一度、触って「こういう風になるんだ」と知っておけば、いざというときに異変に気付くことができる。
今は、芸能人の方がカミングアウトして、乳がんに関心が集まっている。「啓発活動の力になれるのが非常にうれしい」と営業にも積極的に取り組んでいるそうだ。
乳がん触診シミュレーターに限らずリアルな触覚が要求されるシーンは、他にもあるはずだ。現場の医師から反響に手応えを感じている浩一氏は「未来のシミュレーターとして、触診モデルを事業化してゆきたい」と今後の展望を語った。
引用元:
「奇跡の一本松」を保存した生物研究所が乳がん触診シミュレーターを開発した理由