アイドルグループ「おニャン子クラブ」のメンバーとして人気を博し、解散後は女優業などで活躍してきた生稲晃子さん(48)。5年前の春、右胸に乳がんが見つかり、治療と乳房再建のために5度の手術を経験した。闘病の日々を支えたのは仕事、そして家族への思いだった。(戸谷真美)

 平成22年末、例年受けていた自治体の無料検診を受けそびれたことに気づきました。そこでお友達の医師に勧められ、翌年1月に受けた人間ドックで右胸にがんが見つかったんです。「来年受ければいいや」と先延ばしにしていたら…。ラッキーだったと今では思います。

 正式な告知を受けたのは4月、43歳の誕生日でした。ドラマのワンシーンを撮っているかのようでした。ショックでしたね。ずっと元気で生きてきて、私の中で「がん」の2文字は「死につながる怖い病気」というイメージでしたから。

 最初の手術はその年の5月、腫瘍が小さく、しこりとその周囲の細胞を切り取る乳房温存術でした。ところが翌年になって、また右胸に小さな赤い突起ができ、悪性であることが分かって、24年9月に2度目の手術を受けました。病院には3カ月に1度通い、再発の有無を検査しました。2度目の再発を告げられたのは、25年の秋でした。

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 このときは「(死への)覚悟が必要なんだろうか」と思いました。相当たちの悪いものが私の中にある。打ち勝つ術があるだろうか…と。

 担当医からは右胸の全摘出を勧められました。2度目の再発から摘出手術までの約3カ月間、まったく自分らしい生き方、考え方ができなかった。それまでの人生を振り返って「何か悪いことをしたのだろうか。罰が当たって今こうなのかもしれない」「なんで私が」「なんでこんなことに」…。答えの出ない問いが、頭の中を駆けめぐりました。

 でも、あるとき担当医の言葉を思い出したんです。「命を優先しましょう」と。長女(10)のことを考えました。「この子が1人で生きていけるようになるまで、死ぬわけにはいかない」。私の4年8カ月の闘病生活は、このときが底。そこからは前を向くしかないと思えました。

 25年12月、右胸の全摘手術を前に、娘と家の近所の銭湯に行きました。娘が前から行きたがっていたんです。「全摘手術をしたら、もう人前で裸になる勇気は持てないかもしれない」と思って、2人で出かけました。昔ながらの銭湯で、娘は家とは違う大きなお風呂を喜んでいました。この日は楽しくて、悲しい日でした。本当に時間が止まってくれたら。そう思いました。

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 その年のうちに右胸の全摘手術と同時に乳房再建術を受けました。再建のためにはまず、皮膚の内側にティッシュエキスパンダー(組織拡張器)と生理食塩水を入れ、皮膚を伸ばします。ところが、私は最初のがんで放射線治療を受けたため、皮膚がなかなか伸びません。痛みという面では、このエキスパンダーによるものが一番つらかったです。その後、エキスパンダーなどを取り出し、シリコンを挿入する手術を受けました。

 がんを公表せずに仕事をしていたので手術の翌日に、撮影で腕を上げなければならないこともありました。「四十肩なので」などとごまかしましたが、お世話になっているスタッフや共演者の方たちに、病気を隠していることが心苦しかった。それでも仕事中は病気を忘れられた。仕事は大きな支えでした。

 もう一つの支えはやはり家族ですね。娘は「ママががん」ということを、誰にも言いませんでした。あの子なりに母親の状態を理解してくれていたと思います。夫も娘も病気になった後も、変わらない態度で接してくれた。普段通りに。それにはすごく感謝しています。

 今も3カ月に一度は検査を受けています。がんと闘った5年間で学んだことは「普通を保つ」ことの大切さです。つらいからこそ、仕事も家庭も普段通りに、穏やかに生きようと頑張りました。それが逆境に打ち勝つ力になったと今、改めて感じています。

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 〈いくいな・あきこ〉 昭和43年、東京都生まれ。61年に「おニャン子クラブ」オーディションに合格。解散後は女優、リポーター、講演活動などで活躍。昨秋、乳がんを公表し、今年4月に闘病の日々をつづった「右胸にありがとう そしてさようなら」(光文社)を出版した。9月14日に「がん対策推進企業アクションセミナー」(東京都港区のヤクルトホール)で講演予定。


引用元:
【病と生きる】女優・生稲晃子48歳が5年にわたる乳がんとの闘いを切々と 「辛いからこそ仕事も家庭も普段通りに…」(産経新聞)