熊本地震からもうすぐ4カ月。地震は熊本市民病院新生児病棟の赤ちゃんたちも容赦なく襲いました。周産期医療に携わる医師や看護師らの連携で、各地に転院し、命をつないでいった赤ちゃんのその後・・・。熊本市の友田さくらちゃんを取材した熊井洋美記者が感じた「もう一つのストーリー」です。

 

 5月初旬、熊本地震で被災した熊本市民病院を訪ねると、入院患者がいた2病棟は閉鎖され、医師や看護師たちが、避難所や赤ちゃんが転院した病院への巡回に忙しくしていました。

 赤ちゃん用の集中治療室(NICU)がある新生児病棟が避難を強いられる、かつてない事態に、38人の赤ちゃんはどうやって運びだされたのか。

 赤ちゃんと離れた家族はどうしているのか。

 同僚の記者と搬送先の病院に問い合わせ、地震当時生後80日余りだった友田さくらちゃんの家族に出会いました。

 

 「あの晩、自分の家も大変だったろうに、夜を徹して赤ちゃんを運んでくれたスタッフの皆さんが、神様みたいに思えます」

 母親の晴美さん(39)は感謝を何度も口にしていました。新生児病棟に子どもを預ける家族は、搬送が滞りなくすむことを祈ることしかできません。

▼【熊本地震(1)新生児病棟倒壊恐れ、赤ちゃんを久留米へhttp://www.asahi.com/articles/ASJ81251XJ81UBQU001.html】

 「あんまり記憶ないんですけれど、混乱というよりは目の前のことをただやる、という感じで…」。新生児内科部長の川瀬昭彦医師は話しますが、当時の関係者の話を聞くと切迫感が伝わってきました。

 地震が起きたのは真夜中。

 病院の待機場所では、医師らが右手で酸素バッグを膨らませながら赤ちゃんの肺に空気を送り、左手は携帯電話で病院や患者の家族に連絡しました。

 毛布が足りず、看護師らが自分たちの上着で赤ちゃんの体を包みました。

 赤ちゃんを迎えにきたある病院の医師は、運転手が見つからないので自ら救急車を運転しました。

 赤ちゃんの搬送先の一つとなった熊本大学病院では、スタッフが赤ちゃんを抱いて8階まで階段で駆け上がり、看護師さんが集まって別の階から数百キロもある保育機器を担ぎ出し、次々来る赤ちゃんを受け入れました。

 大変過酷な現場だったと思います。

▼【熊本地震(2)娘と離れ、母は熊本で車中泊http://www.asahi.com/articles/ASJ8176FZJ81UBQU00G.html】

 

 こうした方々の尽力で助けられた1人がさくらちゃんでした。初めて会ったのは、本震から1カ月後、熊本市民病院から約80キロ離れた、移送先の聖マリア病院(福岡県久留米市)の新生児病棟でした。私にも可愛らしい笑顔を見せてくれたのが印象的でした。

 状態が改善してきた赤ちゃん向けの回復期ベッド(GCU)の枕元に絵本が置いてあり、さくらちゃんはご機嫌でした。ぷっくりした手で医師の指を握ったり、おもちゃに近づこうと体をよじらせたり。「もういつでも退院できる状態までになりました」と医師は言っていました。

▼【熊本地震(3)生後100日、家族4人で祝うhttp://www.asahi.com/articles/ASJ827L03J82UBQU00P.html】

 その1週間後、家に戻るための訓練をするため、さくらちゃんは熊本市内の福田病院に転院しました。地震後の約50日間で、家族がさくらちゃんを見舞うために久留米に行けたのは2回だけ。仕事や家の復旧で遠出は難しかったためです。

 その後、さくらちゃんは無事に自宅に戻ることができましたが、県外の病院に避難したまま熊本に戻れない赤ちゃんが複数います。30分の面会時間のために往復4〜5時間かけて遠方の病院に見舞いにいく家族もいます。いま、転院先や熊本市民病院の看護師らが、定期的に家族に連絡を入れて、不安や困ったことを聞き取る取り組みを進めているところです。現場の頑張りを応援したいと思いました。

▼【熊本地震(4) 結束深まる家族http://www.asahi.com/articles/ASJ836F3VJ83UBQU003.html】

 

 実は、今回の地震では、入院患者だけでなく、自宅で人工呼吸器をつけて過ごすお子さんたちの被災も深刻でした。台風が起きたときに避難先として約束していた病院から「救急患者が優先なので」と断られたり、車中泊で車の電源で小型の人工呼吸器を動かしてなんとか子どもの呼吸を維持したり、綱渡りだった当時の状況を聞きました。

 もし今回の地震の発生が真冬だったら。もっと寒い北海道や東北だったら。熊本市内でNICUをもつ病院がもう1カ所でも機能を失っていたら。道路網がもっと寸断されていたら――。小さくて弱い命が危機を乗り越えられたのは、いくつかの巡り合わせが重なっていたからでもありました。

 「みんな無事でよかったね」で終わらせてはいけないと感じました。次に来る災害に備えて、私自身も何ができるかを考えています。


引用元:
あの晩、赤ちゃんを運んでくれたスタッフは神様みたい  【患者を生きる〜もう一つのストーリー〜】(朝日新聞)