戦後の育児は、粉ミルクが普及する一方で、「母乳で育児すべきだ」との意見も強まるなど、揺れ続けてきた。翻弄(ほんろう)される母親たちを支え続けてきた元小児科医巷野(こうの)悟郎さん(94)=東京都目黒区=は「赤ちゃんが満腹で機嫌が良くなれば、ミルクでも、母乳でも大丈夫」と強調する。(細川暁子)
「哺乳類の動物的本能で母親が赤ちゃんに母乳をあげたいと思っても、出ないこともある。気持ちに体がついていかない葛藤に、母親たちは苦しんできた」
戦後七十年間の育児を見続けてきた巷野さんにとって、母親たちの悩みは今も昔も変わらないように感じるという。
小児科医として、医療の最前線に立ったのは戦後間もなく。伝染病(現在は感染症)がまん延し、「病院では毎日のように子どもの遺体を抱えた」。食料不足で母乳が出ない母親も多く、その場合は米のとぎ汁ややぎの乳を与えていた。
人口動態統計によると、当時のゼロ歳児の死亡率は千人当たり約七十七人。現在の四十倍近くの赤ちゃんが毎年亡くなっており、乳児死亡率を下げることは国の至上命令だった。
旧厚生省(現厚生労働省)技官だった巷野さんは、連合国軍総司令部(GHQ)の指導のもとで、伝染病を防ぐため授乳前には乳首を拭くこと、哺乳瓶を石油缶で煮沸消毒することを保健所を通じて広めた。
長女が誕生した一九四九年は粉ミルクが手に入りにくかったが、長男が生まれた五四年には普及した。長男は粉ミルクで育ち、「長女に比べてまるまると太った」。ゼロ歳児の死亡率は千人当たり約四十五人まで下がった。「もはや戦後ではない」が流行語になった二年前のことだ。
その後、粉ミルクは育児に欠かせない存在になった。旧厚生省の調査によると、六〇年の母乳育児率は70・5%だったが、七〇年には31・7%に低下。逆に母乳と粉ミルクを併用する「混合栄養率」は六〇年が9%だったのに対し、七〇年は42%まで急増した。
世界的に母乳育児への回帰が起きた七〇〜八〇年代、日本も無縁ではいられなかった。七九年には世界保健機関(WHO)と国連児童基金(ユニセフ)が「母乳育児は、すべての国で積極的に推奨されなければならない」との提言を採択すると、日本の母乳育児率は再び49・5%まで上昇した(八五年)。その後下降と上昇を繰り返しながら、二〇一〇年の母乳育児率は51・6%まで上がった=グラフ参照。
一方で巷野さんは、母乳が出ずに悩む母親も多く診てきた。「昔と比べれば、粉ミルクはずっと母乳に近づいている。引け目に感じる必要はない」。笑いかけ、話しかけながら粉ミルクをあげれば赤ちゃんは心も体も満たされるという。
乳児死亡率は昔と比べてぐっと下がった一方で、出生率の低下が際立つ現代の日本。母親と一緒に悩み、励まそうとする周囲のまなざしが足りないと指摘する。
「仕事を持つ母親が増えているが、子どもが熱を出した時に周囲から白い目で見られるようではいけない。『大丈夫?』というちょっとした心遣いに、いつの時代も母子は守られてきたんです」
巷野さんの経歴 栃木県出身。1944年3月、東京帝国大(現東京大)医学部を卒業後、台湾の病院に軍医として赴任。終戦後の46年に帰国し、母校の小児科に入局。旧厚生省母子衛生課技官、東京都立府中病院(現都立多摩総合医療センター)長などを歴任し、数年前まで、こどもの城小児保健クリニック(東京都渋谷区)で診察。
引用元:
<母乳ストーリー>ミルクでも胸を張って 94歳元小児科医から母親たちへ(mamari)