出産時に何らかの理由で重度の脳性まひになった子どもに3000万円の補償金が支払われる産科医療補償制度。2009年1月1日に開始されてから6年が過ぎ、制度の見直しが行われ、今年(2015年)1月1日から補償対象児の範囲が拡大されることになりました。
対象範囲がどのように変更されるのか、これまでの対象者数が当初の推計値より少なくなったのはなぜか、そして、この産科医療補償制度を、母子や家族にとってより良い制度にしていくためにはどうすればよいのか、などについてお伝えしたいと思います。
対象範囲はどう変わるのか
現在、分娩機関は全国で、病院1205カ所、診療所1659カ所、助産所448カ所あり、この内、5カ所の診療所を除く、ほぼ全ての分娩機関が、この産科医療補償制度に加入しています。
そして、これまでは、補償対象になる条件が、基本的に以下のように決められていました。
(a)身体障がいの等級1、2級相当の重度の脳性まひであること。
(b)出生後6カ月未満の間に死亡していないこと。
(c)先天性や、新生児期の要因による脳性まひではないこと。
(d)出生体重が2,000g以上かつ妊娠33週以上(一般審査基準)、または、妊娠28週以上で所定の要件を満たし(個別審査基準)、出生していること。
この内、今年の1月1日から変更になるのは、(d)の内容で、(a)〜(c)は今まで通りです。
(d’)出生体重が1,400g以上かつ妊娠32週以上(一般審査基準)、または、妊娠28週以上で所定の要件を満たし(個別審査基準)、出生していること。
つまり変更点は、まず、「一般審査」と呼ばれる、原則的に補償対象として認定される範囲の条件について、出生体重を2,000gから1,400gに、妊娠週数を33週以上から32週以上に広げたということです。そして、「個別審査」と呼ばれ、一例一例、制度の対象として認定するかどうかを詳しく審査する妊娠28週以上32週未満に生まれた子の「所定の要件」の中身を緩和したことです。
「所定の要件」が具体的にどのように緩和されたかについては、少し専門的になりますが、これまでは、「アシドーシス(酸性血症)」になっているか、または、出産時の胎児心拍数を示すグラフに2種類以上の異常所見が見られるか、どちらかの要件が必要でしたが、今年からは、これら以外にも、胎児に何らかの低酸素状況があったことをうかがわせる所見が何か1つあればよい、と緩和されました。
誕生日によって新旧の基準の適応が変わる
この補償制度への申請手続きができる期間は、1歳の誕生日(極めて重症の場合は生後6カ月)から5歳の誕生日までと決められています。
今年の1月1日から補償対象となる子の範囲が拡大されたわけですが、古い基準が適応されるか新しい基準が適応されるかは、申請日ではなくて、子どもの誕生日によって決まります。つまり、制度が始まった2009年1月1日から2014年12月31日までに生まれた子どもには古い基準、そして、今年の2015年1月1日以降に生まれた子どもには新しい基準が適応されるわけです。
大切なことは、申請手続きが「5歳の誕生日まで」と期限が決められていることです。したがって、2009年1月1日〜同年12月31日に生まれた子どもは、既に申請期限が終わってしまっています。そして、2010年に生まれた子どもも、今年の2015年に入って、毎日毎日、1月1日生まれの子どもから順に、申請期限が切れていくことになります。
既に申請期限が切れた2009年では、結局1年間に何人の子どもが補償対象となったのでしょうか。
昨年12月18日に開催された産科医療補償制度の運営委員会で、制度初年の2009年に生まれた子どもの申請状況等について報告がされました。
それによると、昨年12月5日までに審査を終えたものが、522件あり、その内の77%の404件が、補償対象になったということです。また、その時点で、申請されていたけれども審査を終えていない件数が37件、申請が届いていないけれども、申請の準備中であることが把握できている件数が7件でした。
2009年に生まれた子どもの補償件数が正確に確定するのは、全ての審査が終わる今年の春頃になるでしょうが、ほぼ450件弱になるだろうということがわかったと言えます。
しかし、この制度は、当初、年間の補償件数は500〜800件と想定されて始まりました。また、2013年7月に、改めて推計し直された際も、340〜623件とされ、その中央値は481件とされていましたので、少し少なく感じます。
なぜ、年間の対象者数は推計より少なかったのか
なぜ、制度が始まった最初の1年間の対象者数が、推定値よりも少なかったのでしょうか?
その理由には、以下の(1)〜(5)の5つの原因が考えられます。
(原因1)脳性まひ児に関する過去の統計データがなかった。
(原因2)制度破綻のリスクを減少させるために対象条件を厳しくした。
(原因3)原因分析が始まったことによる緊張感で医療の質が向上した。
(原因4)この制度がまだ十分に認知されていない。
(原因5)医師が「補償対象外」と決めつけて申請してくれない。
実は、これらの原因の1つ1つの考察が、この制度と産科医療の実情を知ることや、この制度と産科医療をより良いものにしていくためにとても重要なのです。
(原因1)脳性まひ児に関する過去の統計データがなかった。
これまで、厚生労働省は、脳性まひに関するきちんとしたデータを持ち合わせていませんでした。唯一、一部の医師たちによる自主的な研究によって統計が残されていた沖縄県のデータを中心に、三重県や茨城県、宮崎県などのあった様々なデータ等も参考にして全国値を推定するしか方法がなかったのです。
したがって、想定値の幅もどうしても大きくなってしまいますし、一昨年に、より細かな手法で統計の専門家たちが、新たに推定し直した際も、基本的には、同じようなデータを使うしかなかったという状況でした。
日本では周産期死亡率や新生児死亡率というような「死亡率」の統計ばかりが重んじられ、特に生後1週間までに死亡する子どもの数が戦後減少傾向にあることが、産科医療の質と関係しているかのような取り上げられ方がされてきました。
しかし、日本では、産科の医療事故被害者の子どもは、出生児に心拍や呼吸が止まってしまっているような場合でも、蘇生され人工呼吸器を装着して一週間以上生きるケースが多数です。そして、その後は、脳性まひとなって長く生きるか、重度の場合、幼少期に肺炎や腎不全等の病名で死亡するかに分かれていきます。実際、日本は1歳〜4歳の子どもの疾患による死亡率が先進13カ国の中で最も高くなっており、肺炎による死亡率も特に他の先進国よりも多くなっています。
本当は、脳性まひの子どもの状態や数の推移がわかる統計をとり、その原因を探ることが厚生労働省の大切な仕事の1つだったはずです。にもかかわらず、この種の統計や疫学調査などの研究がほとんどなかったことには驚きを隠せません。
だからこそ、産科で脳性まひになった子どものための、この「産科医療補償制度」という公的な保険制度が、必要だったと理解すべきなのかもしれません。
モラルハザードの心配も
(原因2)制度破綻のリスクを減少させるために対象条件を厳しくした。
一般に、対象件数の想定が困難な中で制度を始めざるを得ない際には、少なめの想定で始めて、もし、結果が「想定よりも多かった」となれば、補償ができなくなってしまうわけですから、どうしても制度破綻のリスクを減少させるために、想定を多めに見積もりがちになるでしょう。「想定よりも少なかった」という結果になれば、「それでは、もう少し対象範囲を広げよう」ということにすればよいわけで、今年からの対象範囲の拡大も、その流れで実現したわけです。
それでも、私は、もっと対象範囲を広げるべきだと考えています。
生後6カ月未満に死亡した子、妊娠28週未満の未熟児、障害者等級3級以下などは対象外とされていますが、それらの数字で区切らなければいけない必然性は乏しいはずで、今後さらに、より柔軟な対応を検討していくべきだと思っています。
また、同じようにこの制度に加入し、同じように脳性まひの子どもを育てていても、先天性の脳性まひや新生児期の要因による脳性まひも基本的に除外されています。2009年の一年間でも、脳性まひとなって申請をしているのに、対象外と判断されて補償されなかったケースが23%もありました。ゆくゆくは、原因分析と再発防止のサイクルによって、防げる脳性まひを減らすことで、これらの現在対象外となっている子どもたちにも何らかの対応をしていく検討も必要だと思います。
(原因3)原因分析が始まったことによる緊張感で医療の質が向上した。
この制度は、対象となった事例をすべて、産科医会や学会の代表者らが複数で原因分析をし、その報告書が分娩機関と家族の双方に送られることになっています。そして、それらの原因分析結果を縦覧して、再発防止策も講じられていくシステムです。
そのことは、制度が始まる前に、全国の産科医に対して再三告知されました。原因分析をするために必要なカルテ等の記録のあり方についても、改めて注意喚起がなされました。
このような「他の医師らによって原因分析がなされる制度」が始まるというだけで、産科医の中には、良い意味の緊張感が生まれる可能性があります。補償対象者数の推計は、この制度が始まる前のデータを元にしたわけですから、推計値よりも実際の対象者数が少なくなったのは、このような影響による可能性もあります。
しかし一方で、原因分析がなされることよりも、「公的な保険で補償がなされる制度」が始まることによって、「脳性まひになる事故を起こしても、自らが訴えられたり賠償請求されたりするリスクが減る」と考えて、医師の緊張感がより減少する、というモラルハザードの心配もあります。
実際にこの制度が、医療の質にどのような影響を与えるかにについては、多くの原因分析結果の報告書を元に、これからも毎年1回発行されていく「再発防止に関する報告書」の内容が今後どのように変化していくかを見ていくことで、やがて明らかになるでしょう。ただ、この制度が始まる前の、原因分析をしていなかった時代との比較は、もちろんできないわけです。
※「再発防止に関する報告書」の内容については、『妊婦さんとその家族は必見 〜産科医療事故「再発防止に関する報告書」のポイント〜』の『(前篇)安全なお産のために「陣痛促進剤」について知っておこう』と『(後篇)「子宮破裂」と「クリステレル」の事故例から分かったこと』をご覧下さい。
(原因4)この制度がまだ十分に認知されていない。
この制度は、原則的に1歳の誕生日以降から申請が可能になりますが、その際には、保護者が、子どもが生まれた分娩機関に連絡し、「補償申請を行うために必要となる書類一式を運営組織から取り寄せてほしい」と依頼しなければいけないことになっています。また、小児科の診断医に対して、子どもの脳性まひ等の状態について診断書を書いてもらう依頼も、保護者自身がしなくてはいけないことになっています。そして、書類一式の記入を終えて、申請する際も、保護者から直接ではなく、分娩機関を通じて申請しなければいけないシステムです。
しかし、1歳の誕生日の頃には、通常、子どもは産科ではなく小児科にかかっているはずですので、保護者がこの制度についてよく知らない場合、申請を依頼し忘れてしまう可能性があります。小児科の医師も、まだ、この制度の診断書を記入した経験などがない場合、保護者に補償申請を促すことをうっかり忘れてしまっている可能性もあります。
実際、産科医療補償制度の運営組織が、あらゆるメディア媒体を使ってこの制度の周知を広報した時期には、急に申請数が増えたということです。このことは、今も、この制度をよく知らないために申請し忘れている人がいる可能性があることを示唆しています。
医師に対象外と言われてもコールセンターに電話を
(原因5)医師が「補償対象外」と決めつけて申請してくれない。
より深刻な問題は、保護者がこの制度を知っていて、子どもが生まれた分娩機関に連絡をしても、医師が「対象外だ」と言って、申請手続きをしてくれない場合です。
産科医療補償制度の運営組織は、2013年8月に、一般的に補償対象外とされている「分娩中の異常や出生児に仮死状態ではない場合」でも、「先天性の要因がある場合」でも、「新生児期の要因がある場合」でも、それぞれ、審査委員会で補償対象と認められた例があるとして、18の具体的な事例の内容を付して、全国に周知する努力もしています。(2013年9月20日開催の運営委員会の会議資料中の「参考資料3」)。例えば、先天性の要因があった場合でも、分娩児の要因によって、脳性まひの重度がさらに増した、と考えられるケースなどは、補償対象となりえます。
つまり、補償対象となるかどうかは、あくまでも、産科医療補償制度の審査委員会が個々に判断するのであり、申請前に現場が独断で判断してしまわず、少しでも可能性があれば申請してみてほしい、ということなのです。
この制度が始まるまでは、出産時の要因で子どもが脳性まひになって原因分析や再発防止を願う場合、保護者は訴訟するしか方法がありませんでしたが、医療側に過失が認められた訴訟案件の多くで、医療側は、当初「先天性だった」という主張をしています。つまり、分娩機関は、脳性まひの原因について、保護者に「先天性だ」と説明してしまいがちだということです。
本当に先天性と言い切れるかどうかは、複数の専門家に客観的に見てもらわなければわからない場合があります。また、この制度では、対象となった全ての脳性まひ事例の原因分析がされていますが、あまりにも分娩時のデータや記録に不備があることが指摘される事例も少なくありません。申請をすることで、そのような指摘がされれば、事故の再発防止や医療の質の向上にもつながっていきますし、そのような事例こそ、現場の医師に判断をまかせてしまわずに、申請してみるべきです。
実際に、保護者が分娩機関から「対象外なので申請できない」と言われたけれども、保護者が産科医療補償制度の運営組織のコールセンターに電話をして、運営組織の方から分娩機関に対して「対象となるかどうかの審査はこちらでやるので、一応、申請書類を保護者の希望通り出してほしい」と電話をして申請をしてもらい、審査の結果、対象となって補償されたという事例が、既に5件以上あるとのことです。
産科医療補償制度のコールセンターの電話番号は「0120-330637」(平日の9時〜17時)です。
医師から「対象外なので申請できない」「申請しても無理だと思う」というような説明を受けていても、十分に納得できない場合や、少しでも可能性があるを考えられる場合には、コールセンターに電話をして、制度の運営組織の仲介のよって申請をしてもらい、審査委員会できちんと審査をしてもらいましょう(また、審査の結果に不服がある場合は、不服審査請求の制度もあります)。
もし、知人に、重度の脳性まひの子どもを育てているのに、まだ、申請をしていない人がいれば、このことをぜひ伝えてあげて下さい。
産科医療補償制度のホームページは下記です。
http://www.sanka-hp.jcqhc.or.jp/
このページで、申請の手続きの詳細などがわかるほか、制度創設のための議論がされた「準備委員会」や制度見直しのための議論がされた「運営委員会」の議事録等も、上記ページの「資料集」の欄の「委員会資料」から読むことができます。また、この「資料集」の欄からは、「原因分析報告書」や「再発防止に関する報告書」なども読むことができます。
引用元:
脳性まひ児の補償対象数は、なぜ想定より少なかったのか?(社会(Wedge))